自由って選択の余地があることか
ポエムっす。
ぼかーその人でないといけないこと、について考えるんス。
誰にとっても代わりのない人なんていないのではないのかっつー。
が、わが子が生後3か月ごろ、実家の庭で、なんというんでしょ、時代劇なんかで草履とか置く、縁側のそばの平たい石につまずいた。
手にはわが子というときに、両手を高く上げ、倒れ込もうとしたんス。
顔面流血にならなかったのは幸いで、ひざをかっくんと地面につけただけで済んだんス。
僕はわが子を大事に思っているのか、本能というのか、よく分からないものがあるのかな(未だにわからない)。
であるんすが、ええ、自分の子供が一番かわいいです。(きっぱり)
というか、一緒に地獄に落ちてやるぞというのは、やばい恋愛でしかないんすけど(汗)
誰の代わりにもならない人かー
(ちなみに相方さんとはゆっくり愛を育んでいるところなので?)
理屈の正しさをこえる実存っつーか、僕は実存主義で理屈作れないかボーと考えているんス。
なんとなく感じる、実感、感情てなんなんしょ。
ぼかーあんまり怒らないように、大事なものがない人というか、義務に従うのが快感な頭でっかちである。
と、ワトソン君に診断されました。
自分に対して代わりのある人のように思うのと、自尊心があるのとどう両立させているのかというと、それほど自分はひどくないという最低限の敬意は期待するところか。
あれ、ずれてきたな、ベントさんの言うところのエロスについてのオチを考えていたのである。
僕がラッキーだったと思うのは、ロリコンに生まれなかったことである。
自分が世間から否定される欲望を持ってないこと。
ヤフーニュース見ていたら、男同士でいちゃつく、いちゃつけるときは、同性愛を疑われないときだけの、堅苦しさっつーか、
自分の欲望を否定されたら、そんなに悪いものか、悪くないことを提出していくというライフワークはできる(か?)。
部落に生まれて濃い人生を歩みたかった、ぽい、普通に生まれたらつらいのとかありますかね。
なお、ぼくは感性は普通(鈍い)けど、病気のスティグマはありますんで退屈はしないというか、
書き書きしたら、自分で考えなかったことが出てくるので、まあ飽きないか。
(エロスにならない)
自分の大事なものが否定される悲しさというか、ああ、それは普通だと思ってるな。
否定されるのが通常で、みんなに押し付けるわけでなし、影でこそっと、そういう自由は認めてもらいたいか。
否定されて悲しいかというと、世間からいじめられるのが常態で、そっとしておいてもらえるなら、それ以上は望まない。
私は私の欲望を大切にしていないと言えるか。
強烈な感情がない分、今日、金魚がじっとしている、調子悪いのかで冷や冷やできて刺激だし、
今日のお昼は何買おう、でワクワクできるし、(人畜無害よのう)
そんな毎日が10年続いたら退屈になるか、のところで結婚してラッキーだったのか。
とすると、負荷もかかる変化も求めているということかな?
ペトロニウスさんが、何かにコミットすることを書いていましたが、一喜一憂の程度、一生懸命になれるものもないと退屈するのか。
必死になるものがある人生とない人生、たぶん年を取ると、逃げ切れないものにも直面すると思うけど。
叶わない願いを持つのは悲しいか。
願い(欲望)を持つとはどういうことだろう。
叶う、叶わないのは外の都合、欲望を持つのは私の自由。
たぶん何代もかけて動くか動かないかの状況(不可能)に没入して悲しくならないとは、を考えているのだが、内面の自由とはなんだろう?