信頼と集団

宮台

現実を見ると、「中間的なもの」に当たるコミュニティは、シェアハウスや私塾からスワッピングサークルまで含め、既にそれなりのボリュームがあります。この本はマクロな社会的劣化を論じていますが、処方箋が中間集団への回帰であれば撤退戦になります。僕自身はマクロな処方箋はあり得ないと判断して、撤退戦にコミットしているのですが。(略)

インターネットのアーキテクチャを用いて非集権的に信用を構築する仕組みは仮想通貨のブロックチェーンを含めて現実的です。中国ではQRコードを使った信用システムが底辺層から拡大しました。信用点数を下げないために悪いことをしないからです。ドゥルーズ的なアーキテクチャ型権力の制御で、市民社会のフィール・グッドな外形が保たれます。 といはえ、信用点数を貯めるためにおとなしく振る舞う底辺の人々が、友達を作れるのか、彼女を作れるのか、仲間を作れるのか、孤独でなくなるのか…というところまで考えると、残念ながら、その効用はベーシック・インカムが果たす機能と同程度の範囲──感情の劣化に関わる経済要因の制御──に留まります。その意味でもやはり撤退戦なのですよ。

http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar1410415

中間団体は撤退戦なのかーと、今日はそもそも論を掘り下げるので新しいのは出ないっす。

ぼかー田舎育ちっす。でも、転勤族なので、故郷を持たないっす。

高校生のときはまったく都会に興味がなかったんだが、30になって東京へ行ってみたかったと、チャンスが全くないでもなかったが、未だに未練はたらたらだけどな。

田舎のしがらみと、都会の個人主義(の孤独と)と言われて、高知市内はともかく、

某町ではニラトン食いたしでスーパーで10分ほどうろうろしたら(セールで売り切れに気づかず)、知人に次の日にからかわれたということはあります。

アパートは町内会活動をしたことがなかったし(町内会報誌が届いてない場所に住んでいたことさえあり)、まれびとの扱いかなー

とどちらかと言うとあんまし息苦しさはない。しかし、NPOに顔を突っ込んだら、そこの悪口を他で聞いたこともあるし、保育所の近所の人の含みのある言い方、噂ってなのを感じた。

僕の前の担当は5年田舎にいて、人間関係が分かるようになったと言って、嫌気がさしていると言う風でもあったかな。

親しくなると見せる顔、不満というか愚痴と言ってもいいかもだけど、包囲網というか。

一皮むけば、ぐちゃぐちゃは分からんでもない。

ぐちゃぐちゃに入って行こうとする人は偉いなー

僕自身は覚悟があるんだろうか。選択できると思っているか。

僕自信は悪い噂は聞かないほうである。僕自身は言わないし、そういう繋がりを持つほど親しい人はいない(?)

都会の孤独に強いかというか、一人暮らしのときは母に毎日3度ぐらい電話していた(マザコン)というか、一日に一度も人と話さないのは苦痛だけどさ。

孤独は耐えがたいかなー

友達は年に一回会う人が3人(グループ)か。

嫌な思いを我慢する付き合いはないんですよねー自分。

別に悪口を言われても気にならないほうです。僕の実態はそんなに悪くないもん♪僕が悪かったら当然のことを言っているだけで、しようがないっしょ。

おれっち、人付き合いに淡泊なのか?

人と真面目に付き合っていないと言われたら、そうかもなー

いまNHKドラマの「北斎の娘」を流していたんだが、橋の上で子供に笑われても、何か歌うかって、ま、そのうち自分の気に任せて歌えそうな気もするか?

なお、兄貴は僕は説得下手だよねと言われました(?)

金の切れ目が縁の切れ目の人生街道ばく進中です。

持って生まれたのがそういう人生で、それから変えようという気持ちもないしな、無理に課題にする気もないか。

というわけで、ぼかー本気で孤独を感じたことがあるのか怪しいので、

と次は「女子的生活第3回」を流していたんだが、理解できないなら笑いあえる距離をとりましょう???

距離が取れない状況に置かれるのがつらんすよねー

中間団体(?)が距離のとれるものなら、選ぶことのできるものならよしと、温州の人たち、それ以外の生き方ができない(自殺する)

裏切りの可能性が低ければ、信頼度数があがるってなもんでしょうがねー

むむ、やはり本を読まなければ、考えも深まらないっす。

信頼ってどういうときに生じるんすねー

僕なんか、地縁のしっかりしたところに住んでいるので(前任者からの引継ぎで)


と、ここまで午前中に書いて、つまんねー、もっとひねられないか、と午後に考えつつ、机の前に座れないで、今眠れないので、書き書きするんス。

女子的生活」3話は、相方的には「ドキドキせんが(しないの)」と、「秘密のあっこちゃん」実写を途中で、「ホワイトハウス」1巻途中で挫折したおいらさんすが、「〜生活」は得るものがないな、(実感が湧かない)、と、

「隣の芝生は青い」の不妊もの見てみようかな、と思ったりもしている。

おいらんちは一緒に暮らし始めてほどなく子どもが出来ちゃって、逡巡もほとんどなかったんすが、IFを考えて、どんなものだったのか演習しておきたくも思ったんス。

でも、批評で「他の家の指針に口を出す」的なウザったさかな、書かれていて、興味低くなってかもと思いつつ、

アラフィフ先輩が「結婚しないの」と言われまくることについて閉口していたのを思い出してそれをネタにするっす。

僕は仕事以外で「〜しないと」と言われた覚えがない、というのは当然、言われているんだろうけど、記憶に残らない馬耳東風なんだろうなと思う、実家家族の中では。

強制力を発揮されたらウザいが、したらいいよ、ぐらいなら、相手がもっともらしいなら聞くが、そうでなければ無視っす♪

揉めるのは嫌なんすが、揉めなければ多少の軋轢はあって当然でしょうというか。

仕事だと、忠告は、次してくれなくなる恐怖に覚えて、納得しなくてもフンフンいうことを聞きまくりっすけどね(?)

(芯のないおいらの欠点だと思っている)

あんまり言われてウザいようなら、反論する心構えはあったりなかったりだが、その辺、やんわり言えているのか、距離を置けているのか(?)、軋轢を生んだ覚えもないっス。

いつでも快適な人間関係っす。

この辺、こうでなければ感がないのも生きやすいかなーとは思っているけど。

許せないことがないというか、何か強制されたら切れると思うけど、そんなこともないし。

高校のクラブんとき、何週間か近所の大学生と一緒に練習する機会があって、あんまり絡まれなかったのは、どんなキャラか分からないと言われたことがあって(?)、おいらさん、適当に皆に合わせて、色がない人と呼んでください?(←なわけはないと思う)

人間関係が心地いいのは選択しているからか、フリーライダーだからか。

違う人から同じことを言われ続けて、違う人なんだからしょうがないっす。

心配してくれている(人ばっかりではないが心の平安のために)と思えば、なんということもなし。


(ここで日曜朝)

というか、僕、意見の違う人協力することができるっつーのが正義なので、人格と意見は別というか、意見が違って常態と思っている。

意見が違っても、僕らは仲良しなんだよねっという信頼があれば、好き勝手もできる。

意見が違っても協力できる(集団になれる)とすれば、集団の目的は、機能集団(目的がある)?か共同体か?

ってこのへん真ちゃんになぎ倒されてしまいそうでもあるが、信頼しなくても、義務だから、損が分かっている範囲で楽しむこともできるというか、楽しいから労働力や金を提供できるというか、

「僕らの社会主義」、(金を使わなくても)楽しむこと、ディーセントな生き方というか、

(前回のブログネタ、正確には、まず権利を習う、大切にされていることが分かったら他者にも寛容にもなれる理論でした)

ん、「丁寧な生き方」ってギャグのようだけど、考えてみたいかなー