有用性 がない人が生きるには

デインさんの「生きがいについて」の感想を読みつつ、有用性について考えてみる。

http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2014/08/post-e7e5.html

有用性のない人も、同朋と思ってもらう、類似性を強調して同情を集めたら、生きる場所がないでもないような、それ以外になんかあるか?


生きる価値はなくとも、生きる甲斐はある。

みんなにとって、私は価値はないが、私自身が追いかけて楽しいもの、私にとって価値のあるものはある。

てか、仕事が出来なくなって、それでも楽しく生きるには、というか、

耳の聞こえない人はいつもにこにこしていないといけないとか、

障害者はできた人でなければいけないのか?不機嫌にしてはいけないのかっぽいの。

(と難しいお題の割に、コタツの周りで暴れているわが子さんで集中できないので日曜に延期っす)


(日曜朝に起きれなかったので状況が変わっていないっすが、というかデインさんから外れた)

影響力の武器を読んで、親密性というか、好意というか、知った仲、共同体的に弱みを見せあえる仲と、機能集団的目的を持って集まる集団と考えて、

よく知らない人が集まる機能集団的には役に立たない人は排除されそうな、

しかし、潤滑油というか、好意を持たれて、雰囲気をよくするために居場所はありそうな、それも無理な人は無理なんだろうが。

人間関係はプラスの部分がないと続かないので、人間性の良さ、でややこしい部分と相殺する。

助けを必要とする部分を人間性の良さで相殺する。

五体満足なら、助けを必要としないのかっつーと、貧困女子とかどうなんでしょ?

気持ちよく助けてもらいなら、気持ちよくなるように不協和音を響かせないように、相手のイメージを崩さないように。

前に書いたけど、五体満足で税金を払うなら、お金を払うその方法は自分に合った方法が選べるが、人格一択だとつらいような。

えーと最初に戻すと、集団の中で、顔が見れる人なら、その人に会った貢献方法とか配慮できるし、あの人のためなら良いか的視点も持てるような気もするんス。

役割の中に人を当てはめるんじゃなくて、その人の役割を作る的な?

起業して3割の人しか生き残らない(っけ?)、社会の中で役割を作り出すというのも才能ですが。

足りない部分を見抜く、全体性が描けるか?

「コミュニティ・キャピタル論」で、稼げる人の周りにおこぼれを預かって集団自体が強くなるっぽいようなを考えてるんス。

トリクルダウン的に、仕事を外注して、稼げる部分に集中して、儲けを増やす。

外注される安い仕事であっても、暮らしていけるなら良いんスがっと。

暮らしていけないから、肩身が狭いんだろうか?とか、究極は筋ジスの人かな?

いや、有用性のない人が生き抜く方法を考えているんですけど。

顔の見える距離なら、同情心が引ける、同朋ともらってもらえれば、居場所もできるっすかなー

同朋と思ってもらえる、類似性をどうアピールするっすか(といいつつ、「こんな夜更けにバナナかよ」積んでるんすが)

違っても生き抜く自由がないのか、と言われるとつらいんス。

誰かに頼ってしか生きることができないって、会社勤めで会社頼りの人が多くて、選択の自由がないとかありふれて不機嫌で、自立するって何だろう?

会社を放逐されなのも、制度に守られているって、別に筋ジスの人と変わらないような?

誰かに頼るしかできない才覚しかないのに自立を求めて何が悪いかというか、永遠の夢っぽく、誰かに頼ることと楽しく生きることは別のような気がするんだがって、

何にも強制されない、心のおもむくままに行きたい、好きなことを仕事にしたいって、青い夢なのか、実際にあるのか(ふろむださんの本が出たら買うなー)

好きなことだけで生きていきたいか?

仕事は95%は退屈だけど5%が刺激的ってテッドさんが言っていたような、5%の楽しさって何なんしょ?

私のテーマで言うと、もう一度生きるに値すること、苦労を無にすること、永劫回帰ってどんなことなんしょ?

(子供をあやしつつ書いたら、あんまり落ち着かなくて、今日はここで放るっす)