自分の価値観で生きる=苦しい?(その2)
前回の記事、テレビで障害者の人が、自分も大変だけど、健常者の人には健常者の人の違う苦労があって、それは私には体験することができないって言った奴を、チキリン殿がRTしたの、か。
不条理って私のテーマなんす。
病気したので。
自由不自由は宮台真司のテーマだそうだがって、何に行動を制限されるのか、何をもって桎梏がないとするのか、人によって持って生まれたものが違う。
銀のスプーンをくわえてくるのはわずかだとしても、持って生まれたものを維持するために人生があるのはつらいか。
夢見たものをかなえられないと分かるのは、環境のせいにできないのはつらいか。
やりたいこと、出来ること、やらなければいけないのが重なる人生は稀で、重ならないとき、どういった行動をとるのか、その自由はあるのかないのか。
桎梏の種類は選べるのか選べないのか。
選べないものにぶつかるのが遅いか早いか?
いずれ凡人になる。
今の職場で仕事のできる人はどうも離婚したぽいというか、なまじ自分が正しいと、正しいこと以外の道があることが分かりにくくなるのは確かなような気はするがN=1っす。
選べないものとどう向き合うのかってので人生が問われるのか、
十二国記で、みんなが評価してくれないところで黙々と自分の役割を果たせないで腐っても、それは結局周りの評価が正しくなるっつーか、そういう人、になってしまうっつーか。
うん?周りを気にしすぎてもいけない、自分の物差しを持つこと、になってしまうのかなー
自分の正しさを持つことと言えば、「正しさ」アレルギーはあるけど、まわりと妥協すること、しないこと、
変えられそうなことは受け入れるしかないが、何は受け入れられないのか、
苦しい生き方になりそうだけど、それでも満足するのは欺瞞かな?
前回の記事のしっぽ、共同体って作ろうと思って作れるのか、共同体に取り返しのつかない不利益をもたらしたら死を持って償う的な面もあるような、
初めから所属していないと解決策にならないのか、
私たちが個人主義になじんでいるのなら、個人主義で役割がなくとも生きる道を探すべきかって、
やっぱり関係性がないのなら有用性で繋がりを持つしか考えられないような、
人と繋がりを持つこと、役に立たないことにコミットすれば、コミットすること自体が意味になるっぽいペトロニウスさんの文章がありましたが、
意味を持つことが人生にどんな意味を持つのか?を掘ってみたい?