人生の意味(その2)

(追記)ちょこちょこ直してます(18.2.25)

「生きる意味」はベントさんからもらったお題なので、「意味」という言葉は私なりに飲み込んでみる、二回目。

人生の意味、というか、人間は意味を感じてないとつらいっぽくも思う。

無意味に穴を掘らせて埋める拷問があるっぽいのというか。

目的を持たずに生きることができるのか?

できるような気もするが、善悪を意識しない状態はあるのか、と前に書いたこともあるような気もするがもう一度っす。

アルカポネも自分も正しいと思っていたとか、ツイッターで拾った秋津君です。

まあ、何か変化があるってことは良いことも悪いこともあるので、というか、

西原理恵子が(計ン百万?)多数にお金を貸しても帰ってこなかったとあったような、

持てる人は持っているから少しぐらいいいよねーとなるのもあるかなっつーか、(あれ、ずれたような)、

正当化の理屈はどこでも転がっている。

意識して悪を為す人はいないと思う。

人が言葉が通じたと思う、区切って言葉にする概念が通じたと思う、人が区切る概念として正義と悪はかなり深い部分で原始的に埋め込まれているように思う。

善悪の概念がないということは、善悪の区切りが他の人と違う、善でもあり悪でもあることで、もののけ姫ダイダラボッチの首をとった人かそうでないのか、

赤色、青色と言った、「色」に反応するのでなく、「形」でものを見ているような、発達障害に関心がないではないのだが、通常人と異なる思考経路になるのではないかって話ずれすぎ。

自分の人生における意味というか、掲げないと生きていけない正当化の回路っつーか。

で、正義というか、正義の御旗を掲げないと人を殺せない(掲げると殺せるっつーか)、

極東ブログを見て割かし感動したっつーか、私が他の人に示せるものっつーか、

ツタヤでマンガ20冊借りてきて、というか、ちきりんは38で逃げ切れなくなると言っていたような、青春かー

まだ私は可能性がなくなることを実感としてわかってない。(大学院行きたいし。)

資格が欲しいのかと自問するけど、考えることは楽しいし、会話してみたいつーか、役に立たなくても追及するか。

(といつの間にか朝書いていたのが3時から文章追加しているの、どこで区切られるか分かりますかね)

東浩紀が受験に受かった未来、落ちた未来の差を言っていたが、私は分かんなかったんだけど、

銀の匙」で獣医に受かる未来と落ちる未来、差がある。だけどどこまで差があるんだろう?

双子でも40になるときには受験の成功失敗に関係なく、それなりに似た環境になるとあったような(根拠薄くて済まん)

私が私であるには環境も重要だがって、どこに行っても読み取れるものを読める人は読めるし、読めない人は読めない、実行できる人はできるし、出来ない人はできない。

どういう立ち位置になるかは、まあ教育で学ぶ面もありそうだけどさ、何を学びとれるかはどの環境でも変わりそうにない気もするのであった。

本を読んで、感動する場面は人それぞれっぽく、ある人がつまらない本であっても別の人にとっては大事な本のような。

(ハハ、天才を感じ取れる感性がなかった私でした)

アトムザビギニングで、天才と繰り返す、楽しいことができたらそれでいいヤン、天才(他との差異)に拘る悲しさがあるのかなーと2巻まで借りていて読んだりもしたんスが。

私が私にしかできないことに拘るのか、永井均が、他の人にもできるけど、それができるのは私しかいなかった、で私を位置づけるのか、少し考え込んでいるのだが。

これ以上長時間仕事をしたら身体が壊れるというとき、なぜ逃げ出せないのか。逃げ場がないからなのか。私の考えでは、そういう精神状態に陥ったときは、すでにもう逃げることの意識は働かなくなっているだろう、すでにもう精神的に押し詰められている、というもので、であれば、誰か別の人が、やめなさい、逃げなさいと言うべきではないかというものだ。
 私の考えが正しいかどうかはわからない。間違っているんじゃないかとも思う。でも、自分が見て、誰かがそういう状況にあるなら、そしてもし私がそこで小さな声を上げることができるなら、ためらいながらではあるけど、そうするだろうと思う。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2018/02/post-4b9b.html

安全圏からの発言、にも関わるんだろうけど、私は、世界を変えていくってことを求めている、そこに意味を見出すのか、意味というか欲求か。

そういう、石つぶてを浴びても正論言える人にもあこがれるけど、石つぶてを投げられてもこだわる正しさというか、そこまで意味を求めてしまう悲しさとか。

いや、僕ちん、世界をあるべき姿に持って行って当然と言われると、とたんに潰れて、システムの復旧とか無理っす、で、

世界は混とんとしていて、でも何か変化を起こせる、って可能性があるとワクワクするんすよねー

本人も書いていてどこが違うか分からんけど、心の持ち用っす。

変えていくことができなくなったとき、他人の世話なしで生きていくことができなくなったとき、どういう心持ちになるのか、ちょっくら考え込むことです。

私は、生きるために生きるって、それもできるんだろうけど、ワクワクしないなー

変化ラブっす。と、ソラニン新装版の書評というか、無意味なのか、確かに私が抜けても誰かが補う役割で、でもそこに私がいる事実、永井均の奇跡の体験っぽいのをどう思うのか?

1980年代高知県に父鉄平と母みのりにとの間生まれた僕が奇跡なんじゃなっくて、誰との子でも生まれたのが僕だった奇跡(解釈自信無し)

私が私に飽きることが怖いっすが、って、意味を求めるのは40前までか。

考える生き方の結び、若い人に期待するってことをぼんやり思いつつ。

やりたいことができなくなるとき、無駄かもしれないけど没頭する心根とは?

それも意味っすが、世界に対して無意味な意味というか、他人様に迷惑をかけないとか選べるものでもなしというか、語学っすか?