CANと誇りと自己同一性

生きるために生きる、って心境にはまだなってない秋津君です。

毎日それなりに楽しい。

自分の人生に意味(正当性)を感じずに生きるってどういうことか?

私は私に飽きるってことが怖いんだなと思ったというか、アイデンティティ、自己同一性とは何か?

できるってことがアイデンティティか。

何をもって私とするのか、誇りとするのか?誇りなく生きるってこと=生きるために生きる、とはまた別のような気もしたが。

誇りとアイデンティティの関係はどうなるのか?


私は、物を書いて、自分が考えていなかったことにこけまくるので、飽きないっす。

5年前、薬の量が多かったときは全然閃かなかったんだけど。

そういう年取ってボケたら変わるような自分が自分であることかというか、考える私は、いるところがアイデンティティかなー

眠くなったら性格変わるような性格を自分とするのか?

てか、理想の自分でなく、ダメダメな自分だけど好きっす。

できることを自己同一性と、しがちで、人の補助なく生きることができなくなったときの自分に誇りが持てるのか?

ま、しょうがないじゃん。人生、順ぐりです。ま、そういう人生だったことは認めるしかない。

(この手の達観って、いざ自分がぶち当たるとぞわぞわ泣いちゃうようなのは認めます)

窓の外の木の葉を見れるようだといいなっつーか、相部屋でカーテンで仕切るのか。ネトフリは聞けるだろうか?

電波が入らないだろうか?

鬼平犯科帳は年とったときに置いてあるのだがっつーか。

まあ想像力の限界で、今から考えてもしょうがないことではある。


私が人生の満足度が高い理由がちょっとわかった気がした、育児小説を読んだら。

家を買いたいのでライターに復帰した一番初めの仕事、旦那が子供を見てくれる予定だったが、旦那はお金は出すからどこかに預けたらと言って仕事に行った。

子どもを連れて寒風の中取材のためラーメン店の行列に並んだら、子供のうんちで店の中にも入らず、子どもは熱をだし、適当な文章しか書けず、信頼を失った。

私なら、緊急事態モードで、子供は預けて仕事に行ったかな。

私、攻めには弱いが、守りは強いと思っているのは、大事な一点を守ったら他は捨てる気迫で行くことっす。

二面作戦禁止っつーか、私のアイデンティティというか、何があっても守りたい一点って何だろう?

いや、家族の健康っす。(この時点で金は二番手っす)

私は家族のためにあるのか(って思える幸せよっつか)、家族の健康が脅かされない限りはフラフラしてますっつーか、

コントロールできない自分ではないことに自分を預けるのは怖いっつーか、でもしょうがないっすかというか、

それが脅かされない限り、へらへらできるだろうか?

東京物語で、子供に邪険にされたとしても(見てないけど)

心の中の理想があればいい系になるかな?失って怖いものって何だ?

怖いものはたくさんあるが、予想できないことが一番怖いっつーか未知の精霊っつーか、惨めであるとはどういうことだろう?