内心の自由
内心の自由について考えてみる。
私の欲するところがあって、考えることがあって、望みがかなわないのがふつうである。
外の状況はコントロールできないのがふつうであるので、あんまり結果を重要視しすぎても、どんなに努力したって、叶う叶わないのは神の采配である。
努力しないで手に入ることもある。けど、努力した方が叶う可能性が高くなることが多そうなので努力する。
というか、
- 作者: 橋本治
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1992/09
- メディア: 文庫
- クリック: 5回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
無駄な努力で、野垂れ死にしそうで、カラスが鳴いて、子供にからかわれるみたいな風景が惨めったらしいかというと、別にいいやん、やったことが尊いんだよ、と過程重視派かな?
叶わないものを願うっつーのが私の心の涙腺うるうるさせるんス。
って、心重視派かな?
いや、私は何がどうなるか分からないので、何でもやってみよ、何か変化ある派なんだが、身近には結果なんて分かっているので動かない、っぽいのもいるけど。
外がどうあれ、私がどう考えるかは侵されたくないっつーか、外が私の考えを迫害してくる可能性は配慮しているかな?
連休中は暇だったので、性格診断をしてみたら、受け身と出て、ええーそうなの?と思って、下の方には、人に流されないだの、敵が多いとか、裏切りやすいとかサイコパスとか空気読めない、合理的とか、他の人の結果が出たのかと思ったのだが、私の結果の詳細っぽかった。
と、自分の行動を思い返してみれば、外の状況次第で、言うこと変える、役割を変える一方で、集団の決定に従うのは集団が私に利があるから、だな。
まあ今まで、私に不利益をぶちかましてくる集団もなかったので、集団を抜ける状況もなかったんだけど。
まあなんつーか、迫害される状況が頭にないな?いや、いじめられたこともあるし、親しき仲にも礼儀ありっす。
外が迫害してきたらどうすんのか?
キリストの踏み絵を踏んでもキリスト教的には信仰と全く関係ないそうっすね。
「君たちはどう生きるか」と問われるなら、できるかぎり、他人のことなど気にしないで自分勝手に、自分の快楽を主に生きていけばいい。それだけではないのか。迷惑はかけるだろうし、文句も言われるだろう。愚行権は行使の限界がある。そうして社会にぶつかって、普通に社会と対立して個を貫いていけばいい。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2018/02/post-2367.html
いや、ジーと考えていたんである。
おいらさん、社会とぶつかってまで通したい思いはないなって。
リベラリスト的には、他人が何してもいいけど、自分もなにしても良い。
何でもしていいと言いつつ、したいこともなしっつーか。
他に何をおいても追及したいもの、あったらなーと言うか、ない凡人です。
本読んでモソモソとブログを書くにも唇寒しとなるときがあるんだろうか?
皮肉は分からないように言わないとと思う派としては、外の環境をうまく外す言い訳を考えるのは楽しいけど。
仕事が重い、大勢の人生に影響するプレッシャーはあるんで、辞めたいかなーと自問自答はするんすけど、
おいら、頑張ってるやん、他の人と代わってとくに悪い影響はないっつーか、悪い影響もないっしょと思ったり、あったりするかなー
塞翁が馬で結果はコントロールできなし。
一生懸命頑張っている点に関して、やる気は今までは失せてないしなー
というか、賛成のない押し付けはできない点に人生を賭けている感じかな?信念がない、出世できないなー(抜本的解決策はできないが民意に従ってこそっしょというか、「命の価値」を積んでいる)
と、人ぶつかってまで通したい欲がないので、内心ってよく分からないなーまた挑戦します♪