賭けることと責任
何によってすることを決めるのか。
未来は分からないのなら、結局は賭けることでしかない。
究極的には個人の好み?
私の辞書には責任という言葉がない。
責任なんて負えるものではない。
誰かが頼ると決めたので、決めた誰かの責任と逃げ道がないと重さに潰れるように思っている。
ついでに辞書には謝罪の言葉もない。
謝っている暇があったら、現実を変えろ。謝って何かが変わるのか。
しかしこれは、感謝の言葉の意味は分かるので、現実逃避入っているのだろうな。
というのがいつかのネタである。(今日のネタと繋がるがたどり着くか自信がない)
「子どもを産めない身体になってこそわかった「親になる」ということ 性別の隙間から見た世界」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170820-00052596-gendaibiz-soci
理屈屋というか余裕がないというか、真摯に生きざるを得ない可哀そうさをまず感じた。
安宅さんがまず知覚や―言ってたが、それと私の考えが似ていて(非なるものだろうけど)、結局人の認知って神なざる身で、いいかげんよねー
正しいことって有り得ないよねー
世界なんてあるものは在る。人間はそれに翻弄されて、理屈はつけるけど、どうとでも動ける「可能性」は手にしている、どうとでもできて、どういう理屈も付けられる。何をするにしても根拠はあってない。
自分の思考、思想なんて遊びである。
マイノリティになると迫害されるのか、正しさを主張せざるを得ない悲しさがある。
で、賭けることである。
自分の人生ぐらい、好きにしたい。
ついでに自分の人生なので、人に賭けても酔狂である。
失敗したとき、責めない、のなら、賭けられた人も気楽だろうか。
ま、他人がどうこうするのに、止める理由もなく(と言えないのがいい人だろうか破綻するのが見えているのに止めずにはいられないか)。
私のリバタリアン度というか、他人ほっとけ度は高いっぽく、あんまり他人と関係創るのも下手かというか、別に自分の思う通り動かないのは当然なので、自分の義務だけ果たすべく、〜どうよと言っているというか、
(否定されても怒らない)
あれれ、よそへこけてきたのでここまで。