にせユダヤ人と日本人

読んで笑った。船曳が「日本人とユダヤ人」の感想をほぼ2文に納めている理由がよく分かった。

この本を先に読んだ人が「日本人とユダヤ人」がいいという人を知ったら、信者だと思うわけだ。

ただ、細部・論理の運びがまずいと全部まずいかといったら、船曳が『「日本人論」再考』で指摘したような視点をもてなかったということになる。

山本七平は『日本人とユダヤ人』で、ユダヤ人のイザヤ・ベンダサンという存在を仮構し、「ユダヤ人の考え」という視点から論を進めることで一九七0年代までの「日本の知識人」が持っていた左翼対右翼の図式、そこにあったイデオロギーや常識から離れようとした。

日本を論じるのに持ってくる対比物が、西欧の啓蒙的理性でもなく、マルクス主義イデオロギーでもなく、全く次元の違うユダヤ思想、というところで、日本的な論壇の常識などを無化しようとしたのである。

人と話すときは根拠がない話はできない。書かれていないことを読み取るのはむちゃくちゃ危険な技で、人に根拠のないことを押し付けるわけにはいないし、だから2文だし、

ユダヤ人」から見ると、日本人はこんなに珍しい、そしてうらやましい民族である―途中は何やかや言っても、結局はそういってくれる。決して心底不愉快にされることはない。
「にせユダヤ人と日本人」

と思った人がいれば、否定するのは難しい。ただ根拠の持ち出し方がちょっと気になる。

うらやましい民族といったのは政治のところで一箇所だけで、それを通低音とするのか。

他は文化の違いを指摘しただけで、日本人がすばらしいとか珍しいとか、ユダヤ人がだめだという結論になっちゃうのか。飛躍が含まれるような。

著者は聖書学の専門家ということだから、聖書の引用はベンダサンがいい加減でファイナルアンサーだと思うんだけど、そういう結論になるのかは実際に「日本人とユダヤ人」をちゃんと読まないと分からないと思う。

「百年の誤読」(岡野宏文豊崎由美)では 「書かれている内容のみならず、物事の奥へ一歩踏み込んだ論じ方や、多角的なものの考え方をここから学んどけば、バブルなんかに溺れなかったのに。この本のどこを読んでいたんだ、当時のバカ日本人は!」とまで書かれ、時代を超えた普遍性を指摘していることだし。

著者は「水と安心はただ」というのは事実ではないと言おうとしているんだけど、私の住んでいるところは家の鍵開けっ放しで外出したりします。

というかセコムとかある現在、ベンダサンのあげた安全に金がかかるという思想を否定できるのか。

といわけで、「日本人とユダヤ人」は近所のおじさんの人生録としてみて読む価値あるのかどうかは、他に読む本がある気もする危険な本です。

にせユダヤ人と日本人 浅見定雄 朝日文庫 1986