すらすら読めるイエス伝

やっぱり七平やん、好きだな。七平やんはディレッタントとは思うけど、正確な知識的には保留と思っていたんだけど、やはりというか、知識の人としては置いていおいても、問題意識として敵わないな。

七平やんいくつ頃の作品なんだろう?

私も、「正義にならない糾弾はあるのか」のお題で書いたこともあるし、しかし、もちっと深く、断言しやがったというか、引用大目に行きます。

その後の半世紀、『聖書』の研究は長足の進歩をとげ、その頃の定説も多くはくつがえっているでしょう。

と保留しつつ、当時の最新版(?)の『新聖書大辞典』や『聖書思想辞典』を引いて、

(二)サタンはまず、いわゆる敵対者というより、ヤーウェの宮廷の天使の一人として描かれており、地上の人間に神の義と権利を尊重させる役目を持つ検事のような務めを天井の法廷で果している。

少年の日の素朴な疑問はいつまでたっても消えません。

「正義(神)の側に立って、人間の悪を告白するものがサタンなら、それがなぜ悪魔なのだ!」

『聖書』は、サタンについて印した最も古い部分において、「正義の告発者、神の法廷の検事に相当する者」とサタンを記しましたが、「それをよそおう者」をサタンと記したのではありません。

ラインホールド・ニーバー

その彼の前記の告白、「われわれが遠慮なく真理を語っている時は、相手に憎しみをもっている時か、全然人間的な愛情を持っていないときだ」を読んだとき、『旧約聖書』の筆者が、何をサタンと呼んだか、なぜ神の傍らなる告白者を悪魔と呼んだか、おぼろげながらわかるように思いました。

この、二千数百年をへだてた二つの記述の背後のあるものが、人が義を口にするとき、正義の側に立って告発するとき、それが実は憎悪であって「愛」ではないという恐るべき事実の指摘です。

だが「愛」をもって真理を語ることは絶対になく、人の堕落、人の悪、人の虚偽を、無限の喜悦をもって、義を口にしつつ告発しようと、異様な衝動にかられています。そのため、人をいざない、おとしいれることも辞さないのです。

愛を口にしつつ、実のところ、密かな優越感、自足的な薄笑いとも言える自己満足、逆にいらだちや嫌悪感、いづれも完全な愛の欠如。

何の衝動が、私にこれを書かせたのでしょう。

いや、私は、無実の罪で処刑された者、また無実の罪で不当な扱いを受けているものを弁護するため、余儀なく糾弾せざるを得なかった。それ以外に私はそれをしたことはない。

どのような罵詈雑言を受けても、それを返したことはない―否、この言い訳は成り立たないのです。すべての人はこう言い訳をするでしょうが、問われていることは「『愛』をもって語ったか」ということだけでしょうから―。

そのとき人に言える言葉は一つしかありません。「主よ、赦したまえ」と。

サタンにはこの言葉は言えません。また告発者サタンはこの言葉を絶対に口にしません。人が人でいられるのはこの言葉を口にしたときだけ、ドストエフスキーの描写に従えば十字を切ったときだけでしょう。

だが、彼の記した通り、それによって、悪魔は完全に逃げき去りはしません。それは隠れたあのくらい衝動のように、部屋のすみにうずくまって、じっと機会を待っているのです。

人を愛の対象として見ないのが、なぜいけないのか?という掘り下げもしたいと思いつつ、深すぎて、とりあえずの感想も思い浮かばない。

人を動かす正当性、正当性って何だ?どういう目標に対しての正当なのか?目標はひとそれぞれで、究極的に正しいことってって、循環している。

究極的な正しさがあれば、人の意志を踏みつぶしていいいのか?

私が政治の世界に拒否感があるのはこれなんだよな?

半径3mの幸せならジャッジできるが、先の読めない未来に対して、行動し、責任を取る覚悟をする人って、傲慢であるような、でも誰かがしないといけなくて、

誰がしても完璧でないのなら、努力する私がと思うのも傲慢で、すべきことを為すだけだって、立場が人を作るのか?思想が人を作るのか?

その位置に立った不幸と、(幸せ)と?

「主よ、赦したまえ」が私の中ではまだしっくりこない。

「赦しを乞う」項目が辞書にないというか。「赦し」は神の業。何を受け流すのか?



前回の記事を最後にしばらく休みになったら美しいかなと思ったけど、残念、そんなことにはならなかったぜ。

あと一つ、引用記事を書きたく、あとは、いつも通り、ポワポワ何か降ってくるの待ちで、それも楽しいけど、つらかったりはする。

なお、前回はUP一日後の更新で、ネタを書いた一日後って、結構なんか有ったりはするけど、更新面倒くさいで流れて忘れて、だったりはします。

やはり、仕事そこそこ、年収300万で定時帰りで、先の心配ない仕事ないかなー