静かなる細き声

諸君、私はじじいの繰言が好きだ!

もっとも、人にどう思われようと一向にかまわないということは言える。しかし、「そう思いたいやつには思わしとけ」では伝道はおろか、日常のコミュニケーションさえ成り立たなくなる。

ではどうすればよいのか。(中略)「こりゃ、奇跡でもおこらにゃ不可能だな」その瞬間、思わずハッとした。(中略)

それまで私は、奇跡を本気で考えたことはなかった。いや、なぜ福音書にこんなに奇跡の記述があるのかも、考えたことはなかった。

それは何となく触れたくない問題であり、まことに無責任にも「奇跡物語がなければ、聖書理解も伝道もずっと簡単だろうな」といったことまで考えていた。

だが、人は、私という平凡な一人間が目の前にいるのか、それをそのままに見ることさえできない。

そしてどう考えても「そのままに見ること」は不可能で、それを可能にするには奇跡しかないと、今、私自身がそう信じていたのである。

では、目の前にイエスがおられたら、私に見えるであろうか。そのままを見ればよいと言っても、それは奇跡なくして不可能である。いや、・・・(つづく)

言ってることが訳分からん!でもなんだか人生の深淵をいっているような気がして、訳わかめだけど、読むのがやめられない。ハッ、これが「感染」?

次のページの「内心の伝道」の一編も、天理教でも統一教会でも自衛隊でも呼ばれれば聖書の話をする七平が、

いまの協会は、この人たちに招かれたらこう語りたいという、外部への「内心の伝道の言葉」をもう持っておらず、あるのは内心の批判だけなのであろうか

と言う結びの言葉が人に語るべき言葉を自分が持っているかどうか考えさせられる。

また

ある人が「平和憲法は神聖だ」と言ったので、私は思わず「冗談じゃない。あんなもの、たかが世俗法にすぎないものが何で神聖化」と言ったところ、ファシストとか軍国主義者とか言われた。

まことに伝統とは不思議なものだが、天皇であれ憲法であれ、これは世俗の対象にすぎず、いわば行為を規制するルールとその象徴であっても、決して人間の内心にタッチすべきものではない。それを明確にしない限り、信教の自由などありえないのである。

云々、その他、こうやって書き抜きをするときりがないぐらい面白いところが多かったです。

静かなる細き声 山元七平 PHP研究所 1992