秘本世界生玉子

各種の難問にcakesの連載ではかなり決定的なことを言ったつもりだけど、どう受け止められてるかわからない。ポリタスの寄稿もそうだけど、まあ、誤読されてるかなあとは思う。まあ、しかし、そういうものかもしれない。
BYfinalvent

すいません、すいません、と元ネタ読んでもいないのに適当なこと書いてますかんな。

ちょびっと踏み込んでみたけど、というところで、背後を読み切れる蓄えは未だ無しであっても、ま、妄想が楽しくとも、人の大切なものを踏みにじるとか言うレベルではなしだろうし適当に書くぜ。

「多数の節子」の節子の結論が分からないので、書きようがないんだけど、

その薄さは、「人は生きたということ」が「はじめから不在だった」に対置されたからである。暫定であっても生が肯定された。それがこの哲学的な小説の一つの解であったとしてよい。

https://cakes.mu/posts/10892

もう8回はこの記事読んだかな。クリティカルヒットなのよね。

私も認められて嬉しい人でないとネタにされても迷惑に思うけど、まあそれぐらいは見逃される間柄と思っとこ。

「無意味」と対比される「人が生きたということ」で、私は「無意味」を食(は)んでいるニャーと思ったので無意味の処方箋をいろいろ考えてみたい、というだけといえばだけである。

秘本世界生玉子 (河出文庫)

秘本世界生玉子 (河出文庫)

そこで思うのだが、人間の本能というのは壊れているのではなく、ひょっとしたら、これは未完成な本能なのではないだろうか?

本能が壊れているのなら、壊れていない本能が人間にはどこかにある。”壊れている”という形態のものが、生存を掌る”本能”と呼ばれるのなら、人間という種は、いつでも、いともあっけなく自滅する危険をはらんでいる。

人間は危なっかしい足取りながらも、到底ここまで、いともあっけなく自滅はしなかったのだから、危なっかしいながらも、種として生存を掌る本能はあるのだろう。

そして、それがあぶなっかしいのは多分、それが未完成だからだろう。ならば、人間は本能を完成させてしまえばいい―そう私は思う。

個であるところの人間は、種ではない。そして、人間というのは、生物学的な種であるヒトとは、又別の物である。だから、人間という動物は、動物としての種であることを認識してもらいたいが為に、改めてまとまり、社会を作る。だから種としての人間とは、社会的な人間のことである。そして社会というものは作られるものであるから、”種としての人間”である人間も又、作られるものである。だから、人間の本能も又作られるもの―完成されるべきものなのである。

そして、その場合の本能とは、社会的生活を取り仕切るものである。

動物にとっての本能とは、生きる為、種の維持の為のものなのだから、人間にとっての本能も又、そうした種類のものである。社会生活を取り仕切って維持するものが何かといえばそれは当然”正義”である。だから、人間の本能とは、正義のことなのだ。

人間が本能が壊れているというのは、時々この正義が歪められてしまうということである。壊れていてもそこは本能だから、人間の歴史は大旨(おおむね)、この正義によって動かされて来たし、大概の人間には、正義と言うのが朧げには分る。しかし、この本能は未完成だから、時々人間の都合によっておかしな使われ方をしてしまう。だから正義の定義が確立され、その実践が社会を取り仕切って行けるようになったら、それは種としての人間が、やっと初めて確立されたということになる。

―そして、山田風太郎は、この”正義”を描く作家なのである。

完成された本能によって起る欲望は、必ずや満たされねばならない―何故ならば、それが本能に直結しているものだから。しかし、未完成な本能が掌る、現実という社会に於いて、この欲望は満足させられない―何故ならば、現実社会は、現実という未完成の本能によって既に或る種の平衡状態を保ちながら動いており、完成された本能=正義は、その均衡を破ることが悪と知っているから。だからこの平衡状態が、紀州大納言頼宣という”社会”によって破られる時、初めて柳生十兵衛の欲望が満たされる機会が訪れる。

彼の欲望は、社会という平衡状態の中で、その状態を保ったまま、再びその平衡状態を回復するようにして満足されねばならない。

正義という完成された本能は欲望を生む。その欲望は、必ずや平衡状態の中で満足されねばならず、そうした行動は、行動自体意味づけを拒まねばならない。意味とは、影響力を持つものであり、それは必ずや平衡状態を乱すものであるから。

即ち、正義によって生ずる欲望は必ず遊びという行動によって満足させられるものであり、平衡状態に於ける遊びとは必ずやルールの順守によるものでなければならない。

ルールとは関係を律する物であり、正義とは、この関係を見定め、そのルールが公正か不公正かを知ることの出来る能力のことである。

しかし、その社会を維持する機構の中で奸臣佞臣の存在は悪である。本渡佐渡守は正義の為に敢えて悪を行ったのだが、この矛盾にあたって、完成された本能=正義の持ち主にしていかにして対せたのか?

それは彼は欲望を捨てたからである。未完成な本能の支配する社会の中で、奸臣佞臣と呼ばれることに彼が何の意味をも見出さずにいられたからである。

現実社会とは、未完成の本能に支配されるものであり、政治とはそれを操るものであるから、政治を貫くものは必ずや未完成なものである。それならば如何にして、本多佐渡守、政治という未完成な本能社会の中枢で、完成された本能を獲得することができたのか?

それは、彼の放棄である。

青年は現実社会に加入すると同時に挫折に至る。挫折を挫折と感じえないものが馬鹿であることは前述の通りだが、それならば挫折を知って社会にある者は何なのか?

それは、欲求不満者と欲求不満を自覚しえないバカとの二種である。前者は、自己に欲求があることを明確に知る意志の持ち主であり、後者はそれを知りえない意志の稀薄な人間である。

意志を持つということは何か?それは己の欲望を明確に知ることである。だから、欲求不満に対する解決策も又、知ること以外にありえない。

知るとは何を知るのか?彼の欲求を阻むもの―その実態をである。そして欲求を阻むものの実態が何かといえば、それは当然社会であるのだからして、彼の知るべきものは、社会を構成する個としての人間と、その関係である。関係とは即ち、平衡状態であるから、正義という観点に於いては、これを揺り動かしてはならない。だから常に、社会にある者は欲求不満であることが正しいのだが、正義が本能であり、これが欲望を導くことからすれば、欲求が満たされないのは、誤りか?もし事件が起こらなかった場合は、常にその本能は満たされないのか?平衡を破るような”事件”が正義に合致するものである筈がない。ならば如何にしてこの矛盾は克服されるのか?

簡単である。要は、関係と欲望の問題なのだから、唯ひたすら知ればよい。そしてこの知ることは、関係と欲望との間に持たれる”関係”を知るということである。

即ち、十全たる認識の後には、欲望を損なわないだけの関係と、関係を侵さない欲望との均衡状態を知りうることが可能となるのであり、そしてこの段階に達したものはすべて、自己放棄を常とすることが可能なもの―意味付けによる意味から解放された遊びの境地にあるものとなるのである。そしてこの自己放棄が何なのかといえば、それは、個であることを十分認識したうえで成立する個であることを必要としない、種としての人間の持つ完成された本能ということになるのである。社会生活を営む人間は、自己放棄が可能となった段階で初めて、種としての人間として完成する。だからすべからく人間とは、自己放棄を目指さなければならないのである―完成された本能を獲得するために。

雑文集で読んだ文であったが、これは世界秘本〜でないと意味が分からない。いろいろと順番がある。

次の章に

「私」というのが、公的で社会的な一人称なら、それは社会の為に、社会を成り立たせる為に自分(エゴ)を全部捨てちまった後の何もない抜け殻サ

とか最後のスーパーマンの章とか泣ける。

話を元に戻して、遊び、かー。少しまたズラすと、やりすぎるときは何らかの不安状態にあるとも関係する。

finalventさんも橋本治を読んでいたそうなのでというか、自分の欲望を知りと外との関係のバランスをとる、遊びの境地。35年前に書かれた本で、完成されたって、普通の一般人の解にはならないよなーとは思ったんだけど、なんか浮かびそうではあるので、黙々


[追記]
今日も今日とて職場で私の報告書は、主語がない、長い、かと思えば省略しすぎの3点が揃っていると言われたのだよん。

直接意味が通じるように書いたら恥ずかしいやん、誤魔化しって、仕事文は含意を一つとしたいのだけど