GIFT

前回の記事は信仰告白なんだが、「感じられる」のは個人差があるからして、分からなくて当然だと思う。

し、自分でもそっちにこけるかは興味津々なところである。

苦しいときにすがる神、とは別の神を持ってこれるんだろうか?(掘り下げても(自分が)面白そうか)

日曜に教会に行くかは、面倒くささを考えると、たぶん実行されないとは思うが。


自分が面白そうか、というので、2か月ぐらい書いた記事を読み返してまとめを作ろうともした。

自分は2行あけて5文ぐらい書いてみて、この論理は行き止まりか、というのをそのままUPしているので、読みづらい自覚はあるし。

一応、こういうまとめはありか、と頭の中で作って、それで満足して書く気になれないことが分かった。

頭の中のものをそのまま書くのは作業になるからして、面白みがない。

というところで、普段の「考えごと」はあれ、オチを考えずに書いている。

俺、自分にGIFTはあると思っている。

なぜ自分がこう書くのかわからないんだけど、何か浮かんでくるのが楽しい。

「書きたいこと」のタグの疑問は、感触の落差がある。自分が思っていたのと違う感触をつきあわせて、何か浮かんできそうな予感がする。

ペーパーテストで測れもしたが、病気になって大学に残ることはできなかったし、そこから再起することはできない程度の世間的に見ては価値のないGIFTだけど

って、1年前に薬の量を減らすまではかなり制限されていたか。

4年前に考える作業をしなくてはいけなかったのだが、まったく、浮かんでこなかった。

大学時代には10秒考えたら、何か浮かんできたのにな、とショックだった。

現在はそれなりに浮かぶ。だらだら書いて、一文、この論理のつながりは自分的には面白いんだけどどう?というのを提出している(つもりで読み返すとあまり面白くなかったりもするが)

GIFTは、何か私とは別のものが考えたものであるからして、私の考えではないので、批判されても(そんなことは一度もない場末ブログだが)、別に痛くもかゆくもないんだよね。

というか、観測範囲にはいないので伝聞になるが、自分の意見に固執する人の気持ちがわからない。

私は真理の徒だからして、正しく思えることがあれば、さっとそっちに乗り換えるし。

また、自分の考えは変わっていくのが当然で、以前読んで面白くなかった本が面白くなる瞬間を経験すると、今わからなくても5年後にわかる意見かもと思って、人を批判する気にもなれない。

納得できないことにはうんと言いたくないけど、普段、自分の意見を言わないので宗旨替えを強制されることもない。

秋津君は、不和な状況がかなり嫌な子で、石を投げることはしたくないので、自分の考えを書く場は非常に貴重(?珍しい)。

と自分を高く売っておいて、本当に高いんだろうか突っ込まずに、このブログはいつまで続くんだろうか。