不登校、選んだわけじゃないんだぜ!

「子どもは自分とは別の人格だ。子どもの選択を認めよう。我が子の選んだ道ならば、不登校もすばらしいじゃないか。」

それは、「不登校を美化している」というのとは違う。

不登校はすばらしい」というようりもそれは、「うちの子はすばらしい」の論理に近い。

くり返すけれども、親たちはそう言うよりほかなかったのだ。

「選んだのではない。そうせざるをえなかった。でもそれをしてよかったと思う。

やっぱり選んだのかもしれない。いや、違う。選んだにしては不当に生きにくい。

不登校は社会の問題だ。学校が悪い、大人が悪い、社会が悪い。だけど学校に行かなかったのは私だ。

わたしの不登校はわたしのものだ。でも責任なんて負うつもりはない。絶対にわたしのせいじゃない。

そして、誰のせいにもしたくはない。」

う〜ん、われながら、支離滅裂だ。

だけど、「主体性」を手に入れようとすると「責任」がついてまわり、「責任」が免除されると「主体性」まで奪われてしまうという、そんな構図から脱したいのだ。

私の病気は差別といって悪ければ区別せざるを得ない、人の理解を必要とするところがあり、患者は病気であることを隠して生きる。

私の病気は軽いのも重いのもくそみそで、今世間に流通しているのは重いほうのイメージだ。

軽い人にとっては重いイメージのレッテル張りは、自分の可能性を狭められて迷惑だ。

罹患者数からいうと、世間には軽い人が大勢いるはずで、今、そっちの人生上手く言っている人が私の知っている限り「一人」声を上げたところだ。正社員じゃないけど。

不登校といってイメージが悪い時代があり、声をあげた人が偏見で見られる危険性を冒して言ってくれたら、「明るい登校拒否」という可能性が世間に流通する。

「登校拒否エリート」結構じゃないですか。リスクを犯した人には感謝せな。

レッテルを貼り付けられて、レッテルに勝てない人も大勢いるだろうし、第一印象は大事だ。

グレーゾーンの人が生きやすくなるために、重いほうのイメージから、明るいイメージに変わるのは、一人一人の実態とは則さなくても必要とされる。

「明るい登校拒否」のせいで、明るくない登校拒否児の支援策がとられなくなってまずい事態になれば、ゆり戻しが来てもいい。

著者達の主張はゆり戻しを進める。そんな声が当事者から出てきたのは、多様性が生まれる土壌ができたということで少しうらやましい。

私はまだ早いような気もしますが、新しい芽、第三の道はそんなところで生まれるんだろうな。

登校拒否、選んだわけじゃないんだぜ! 木戸理恵 常野雄次郎 理論社 2005