贈与論とか他人が決めた人生とか

他人が決めたことを実行する人生って、生きる指針、生きる価値観が他人のものである。

自分の人生を生きたとは言わない気がする。

人からお金をもらって、食って寝るだけの人生って、お客様のような気がする。

全ておぜん立てしてもらって、レールはそこにある。

問題は起こさないでね、と念を押されているような。

私の思いがあって、それとは違う外部環境がある。

鬱積するものはあるかもしれないが、実現のために汗を流すのか、飲み込むのか。

私の価値観を貫くのか、あきらめても、私の人生である。

与えてもらうだけの人生は慈悲を乞うのか、贈与論買って読んでないが、与える場がないというか、他人と合わせる場がないのかってずれるか、与えるってどういうことだろう。

ベントさんは年取って教育に携わりたくなるのはやめといたほうが風味で、

他人の望むものを与える、のか、パターナリズムにこけるのか。

与えられるのは他人の意志、何を与えるのかは自分の意志か?

与える行為には、与えないことも含めて、自分の意志があるんだろうか?

何を与えるのが相手のためになるのか、考える、行為がある。


ぼかー病気が再発して生活保護る可能性もないわけではない。(相方の収入期待すると言っておくべきか離縁とみるべきか)

社会から隔絶されて、それでも楽しく生きるには、が最大のテーマだったりもする。

日々、小さな目標を立て、朝の散歩でもすれば気がまぎれるかな、であったりもする。

その中で与えること、はあるのだろうか。

他人から見て不幸でも、楽しそうに生きて、盲を開かせるような生き方はあるようなないような、

人から影響を与えられて、自分が与えて、こそ、生きているといっていいような、一方的なのはどうよ?

なんかゆがむような気がする?

勘というか、この辺は詰めたほうがいいんだろうか?


[追記]

一方的に影響を与えるのは自分の(他人の)価値観至上主義で、一方で私は不服だったけど、あなたが喜んでいるなら喜ぶに変わりますっぽいのの関係か