正しさ、賭け、責任

今の価値観で悪いことでも10年後はよいことかもしれない、でも500年後はやっぱり悪いことかもしれない。

正しさに殉じるのは無理っす。

とか、何かの小説を読んで、組織の中にいる人たちは必死で生き残ろうとしていて、でも外から見ると自分たちがゆるぎない権力になっていたっぽいのだったとか?

橋本治がスランプにならない人は小さな問題をクリアーしているっぽいの、対外的に影響する前に小さな問題をつぶして言っている状態は順調かな。

いつだって、地震・医療・AI問題とか、問題の種はあって、でも以前いたところの農家さん、一山当てて、経済的な心配がなくなったら、××できる余裕もできて、いいほうにいいほうに回り始めたとか、予測は無理っす。

考えすぎたらいつだって心配してしまう。

で、ひとつづつ問題をつぶしていくしかない。

で、時間や資源を割くのはどっちの問題か、で、関わる人を不幸に・幸いにしてしまうのだが、私だって生きるためであるから、多少の影響を及ぼしてしまう他人に。

それが決定的になることだってあるだろうが、私だって必死で、未来から見ればそんなことしなくたって良かったとなるかもしれないが、決死の判断だったのであるその時は。

てか、未来はわかんないのである。

でも、決断するしかないのだ。

決断したら、しなかった未来は選べない残酷さがあるっつーか、

自分の価値観至上主義っつーか、他人の価値観を吟味する譲りを持てないということもあるだろう。

責任を持つってどういうことか、自分の中でいまいち咀嚼出来ない。

自分の意志を優先する、ってまさに生きるってことだけど、人から刺される覚悟を持つことか。

何かのための死という意味付けを拒否して、ただ完璧に死にきったとき、あるいはそうした状態で結果的に生きているなら、人は自由を得るというのだ。むしろ人の自由を奪うものが大義なのである。https://cakes.mu/posts/13432

己の精神がより真実であるためにはすべてを捨て去ってくいることのない彼の姿は、激しい強靭な意志によって貫かれている。最早虚無などというものは存在しない。https://cakes.mu/posts/13559

いつものベントさんの隆慶一郎ナンスが、これは大義と自分の生死をくっつけるなが主題で。

自分の意志のみに忠実に生きるのではなくて、他人の意志も少し反映して、自分が間違っている可能性を残すってことは、他人から打倒される危険性を残すってことで、やっぱり他人から刺される覚悟を持つことだったりするか。

悪をなしても正義をなしても、誰かに影響するってことは、面白くない人がいるってことで、

生きるってことは刺される覚悟をすることと言っていいのだろうか?

いや、自分の意志で生きていないの、人のせいにしても、やっぱり自分が刺されてしまうのだったら、その行為は刺されてもいいと思うに値するのか、自問し続けないといかんのしょうか?