確認とか公認

近代になって個人が自分の自由の追及を許される、個人ごとに好きなことが違う、連帯感がなく孤独、なのか、

人に公認されないってどういうことなんだろう?


ベントさんが自分が良いと思うように物の置き場所を変えたりするけど、奥さんが良いと思う方法があるのならそちらに合わせると書いていたような、

いや、僕だって普段は折れますよ。

しかし、折れない点もあるとしたもんで、というか、自分が折れる点と折れない点と言うのは、事後的には分かるけど、ことが起こるまでそれが譲れないものかどうかわからない。

というか、ビルとアンの愛の法則だったか、何でも確認するなってあったような、

確認するってどういうことなんだろう?

意識しなかったらどうでもいいことが議題に上がる。

ええ、僕もずるっこいのでわざわざいさかいの種をさらすこともなかろうっつーか、

別にどうでもよかったけど、まあ嫌かなってことが口に出すと嫌だからやめての強制に変化するっつーか、

グラデュエーションがなくなる。

濃淡があるってどういうことなんだろう?

交渉可能領域があるってことで、わざわざ交渉する。

大手を振れる。

大手をふれる気持ちよさのためにどこまで面倒くささを我慢するかって、いかにも治ッちゃんの好きそうな正統性だなー

まあ交渉出来たら幸い、相手に譲り譲られでいうと、相手に貸し1になっちゃうよなー

次は自分は何を譲ろう?

積み重ねで、親しさが決まるとしたものかもだけど。

(ちなみに相方に怒られましたが、その後に相方に自由時間もらって、午後は相方が自由時間を満喫しました。好きだぁ❤)

関係の豊かさって何だろう?

あるいは、口に出したばっかりに止めることが強制される権力性の危険か?


(さて、次はツァラストラ?読んだ感想になるかの、週の半ばはブログが短い)