俯瞰的な視点

ふう、ようやく「夜と霧」を読んで、昨日は影響でボーとしてました。

僕は極限状態は極限状態で、日常とは違うし、極限でも日常でも通じる思想を作りたいわけではないっす、今のところ。

極限でも落ち着いていられるできた人間になるっつーのは、自分で選べることでもない、自分は薄っぺらい人間だと自認しているし、その限界を超えることは私のテーマではない。

といいつつ、「竜馬がいく」で、竜馬が上から大きな石が落ちてくると仮定して、いつも緊張感を持って動いている、みたいの、覚えているけど。

ま、明日死ぬと思っていますることを決めると言えるほど、達観は無理と決めつけっす。俗世にまみれるっす。

自分の人生が恵まれたものでなかったとき、なんつーか、たくさんいる先人たちから受け継ぎ、子供たちに受け継いでもらえる流れの一員、とか、

今は苦しいけど、何百年か将来に実現する未来の捨て石、っぽく思えたら、自分の見失い度も少ないかな、とは思っていて、それはどういう理屈なんだろう?と少しずつ掘り掘りしているところっす。

フランクルが未来のある時点で解放されると思っていた人は、その時点が過ぎると生きる意欲を失ったとか、

フランクルは未来で「強制収容所の心理学」を講演することを想像して、収容所を過去のものとして、「わたし自身が行う興味深い心理学研究の対象とすることができた」ってまた微妙な言い方だな、

僕なら自分を俯瞰してみたというか、人生をゲームだと考えるかとか

この収容所から連れ出された先は、ガス室か、別の収容所か、行きたかった先では火で焼かれたとか、残っていたら餓死だったとか、運命がどちらに転ぶか分からない。

自分が素晴らしかったらこうなる、クズだったからああなる、とは別で、自分と起こることは切り離される部分もある。

まともに悲劇を受け入れたらダメというか、収容所では離人症ぽくもあるそうですが、

実存主義者は感情を尊びつつ、自分を切り離して考えないと(今の快楽を我慢しないと)未来の積み立てができなくも思うが、未来の快不快と今の快不快が反するとき、どっちを選ぶかってのは自分の生き方の問題で。

今の不快を我慢する言い訳に未来を持ってくるのか。

未来の不快と分かっていて不快を選ぶ根性は、人間はないとしたものか。

未来の快と現在の快が結びついていて、それを選ばない状況とはどんなものか思いつつ、

正当化できない動機で動くってことが想像できないのと同じか、と、

朝食のパンを買ってきます♪