未知と信頼

おいらさんはM2で、宮台真司がシステムが信頼できるなら刺されてもいい(しょうがない?)っつったことが心に残っている。

ちらりと法学をかじって、新派とか旧派とか、これから犯罪が起きないことを重視するのか、犯した罪に対する罰としての刑罰なのか、という視点があったようななかったような。


鈴木おさむ「『人殺しの息子と呼ばれて…』を見て感じた恐怖」

人は変わらないのと犯罪を反省しないのと、町で暮らすことに恐怖を感じることって、微妙にずれる、てかぼかした書いたのは。

https://dot.asahi.com/wa/2017110100016.html

リベラリズムって、他人の自由を認めること、愚行権を認めることだと思っている。

もちろん、他人から危害を加えられようとしたら、やめるための暴力装置は持っていたい。

が、危害を加えるかどうかなんて、予期できない。

「意識は傍観者である」を読んでいて、仮釈放を認めて、その更生、再犯の結果はぜんぜん予測できてなかったと言う論文があったそうである。

悪そうに見えないので悪いことをしないとは分からないのなら、悪そうに見えるから悪いことをするとか言えそうにない。

悪いと思っていないから=悪いことをするとか、ちょっと別で、

自分は悪いと思っていないけど、まわりの目(とか罰)があるのでそんなことはしないなんてありふれている。

とか、詐欺師は殺人をする人を侮蔑するとか、人の価値観はそれぞれで全く分からない。

自分が許せない価値観だからといって、即、自分のほかの悪い価値観が実行されるとは限らない。

まあ人は人を殺すことをプログラミングされていないようだが、それでも、追いつめられたら何をするか分からない「可能性」は皆にある。

不愉快なことは起こる。他人から見たらなぜ不愉快が我慢できるか不思議なことはあって、

みんな犯罪を犯す、ともしないとも言えなく、というかする可能性はあって、でも抑止力を配置する方法を考えたほうがマシな気がする。

人が絶対犯罪を犯さない保証はなく、そういう保証がある社会では自分も排除される可能性っつーか、マシな灰色な社会と言うか、

自分が人を刺す可能性を言い募られない社会は、人に刺される覚悟のある社会が自由のある社会だと思っている。


理想論とは分かるので以下。

たまにファーストコンタクトを考える。

宇宙人物、というか、昔は海の向こうからきた人だったんだろうな、理解できない人、何をするか分からない人。

どうやって信頼を積み重ねていくのか。

下手したらこっちが食われるぞ、でもあって。

なんつーか自分に理解できない他人と共存する方法というか、日本人は弱いかなというか(大上段)、移民で苦しむとはこんなことだろうと思う。

向こうがこっちのペースに合わせたらよし、合わせてはくれないだろうな。

でも、ファーストコンタクト、信頼し始めるのはどっちだ。

向こうが信頼できそうだから、こっちも胸襟を開くと双方考えていたら、永遠に信頼の第一歩は踏み出されない。

刺される覚悟を持つこと、って万人に理解を求めることでもない。

でも、寛容であること(寛容:心が広く、たにんをきびしくとがめだてしないこと。よく人を受け入れる・こと(さま);大辞林

自分が持てるものであれば、少し分けても痛くないのか。

車持って港区のマンション持ってが一部の人であるならば、その人でさえ、ローンで首が回らないのなら、豊かであるとは何か。

人と付き合うために何を差し出すのか。

ゲーテッドコミュニティが最先端なのだろうか?

結果、知的障害者は刑務所に、精神障害者は病院に何十万単位で送り込んでの幸せの確保になっている。

絶対に悪いことをする人を排除しようとしたら、その他もろもろの排除になって、「絶対」だけを排除する手間をかけられる社会はない。

「絶対」を判断するのが人である限り、人の判断が一致することはなくまた間違いを犯す。

僕の手もキミの手も真っ赤っ赤である。

愉快なお隣さんは面倒くさいし、いないほうが良い。

誰とも軋轢のない社会に憧れるのか。そりゃそうだ。

僕も難しい人とは敬して遠ざけるとは言っている。

人と距離を取る自由、ワチャワチャの苦労、転職の一番の理由は人間関係か。

ヒックとドラゴンで敵対していたドラゴンを手なずけた。

ボタンのかけ違いで血が血を呼ぶことはあって、積み重ねた血の重みは、思い込みを強化させる。

ドラゴンが弱っていたから同情のし始めであって、

人を信頼しようというとき、自分の大事なものを相手に踏みにじる自由をあげるのは、やっぱり人から何かを差し出された経験のある人でないと無理なのか。

ここではない理想世界の第一歩って、裏切られるから理想世界で、裏切られて何ぼの理想世界で、それでも歩みを止めようと思わないのは、引き換えに何を得るのか。

何かを得られないと思ったら何も差し出せないのか。

引き換えを望まない関係は続かない。ってペロニウスさんの言うところのグランドルール?で、常人がそれを期待したらあかん気がする。

何かを与えることは、贈与は、人間の本能として、どうなんしょ。

自分が与えるものが自分で決められるならまだしも、何が返ってくるか想像がつかない世界である。

何が返ってくるか予想がつかないのなら、たまには遊んでも面白いかと思うか、藪蛇とするか。

世界は予想できない。けど、恐れすぎてもいけない。

確率×インパクトをなるだけ正確に測るって、奇跡(滅多にないこと)は起こる。

ロードス島戦記で帰らずの森が結界を説いたのは良い判断だったのかたまに考えている。

平和が訪れた100年後やっぱり戦争は起こった。

人によって行動を変えるのが人間で。

一律、難民を受け入れるとはならないのか。

お上の理想と、軋轢を生むのは自分たちで。

難民の受け入れと一言でいうとき、想像上の難民で、個性を持ったその人ではない。

(冒頭の個性のある人とは別になるか、伝聞で聞いた、他人の目で編集されたことを真とするか)

選択権のないのは嫌か。

納得しないと自分の人生を生きたことにならないのは何故か、が僕のテーマだったりする。

押し付けられたことを納得するとはどういうことだろう。

正当性?

与え与えられる関係は理想的で、自分の予想のつかないことが起こるのは怖い。

未知はどうやって克服するのだろう。未知であることをたくさん経験することがワクチンになるんだろうか。

と言うか、未知である他人は敵対者なのだろうか?

ベントさんでベーシックインカムは国のなかでの議論になるっつてたような、フランスの自由平等博愛はフランス人にしか当てはまらないそうだが、

同じであることを保証しない人に対してつべちーのか、同じであると未知な関係はどうなるのだろう?

与え与えられる関係はどこまで閉じられているのだろう?

相手が損を与えるかもしれないときに保証制度なんてあるんだろうけど、信頼を積み重ねるのは?