打ちのめされない理想

finalventさんが「シェルプールの雨傘」という映画の感想に思い入れがある件、この映画の感想は橋本治が「貞女への道」へ書いていて、僕は「結ばれて、地味な彼女がサングラスと赤い(なんだったかな)で変身しちゃうの、釣り合う女、重い女にならないのに必要なこと」っぽいの、何となーく覚えている。

ベントさんも橋本治を読んでいた過去があるっぽいのだが、どの程度の重みだったんだろう。

橋本治

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

で、この世で奮闘することが認められなくても、仏教的に言えば、次の生でカナブンになって、窓ガラスにぶち当たって死ぬ、次の世で報われると思ったら頑張れるっぽいことを書いていたような、

丹波哲郎大霊界も、この世で報われなくてもあの世でいい目にあえると思えば、いいことできるっぽかったような、

キリスト教徒が、天国へ行けると思って努力できるの、というか、

私は、湖にパンをまく、山本七平の生き方を尊敬しているのだがって、

時事とか世界情勢についてブログで書かなくなった。意見はあるけど、受け止めが予想ついて書く前にがっかりするのと、世界情勢については、日本の言語空間には通じないかもと、これも書く前にがっかりしてる。

たとえば、中国の軍拡について僕が書いても、意味ないと思うよいになった。その筋では検討されてはいるが。あと例えば、「ボコハラム」とか、やはり日本ではそもそも関心薄いだろう。

ボコハラムについては、僕、時々考えるんすよね。誘拐された女の子たちの気持ち。

女性が教育を受けるのは間違ったことじゃないけど、その帰結がこうならば、というか、人生を恨まずに済むのだろうか。

貧しい家庭に育った子が努力したけどダメだった、と認めるのか。

相談を受けた人はまず、その貧しい子の気持ちを受け止めないといけなかったんだろうとは思うが、

人生、負けを認めて悪いということもないけど、負けを認めて向上心を失くしたら、助ける周りも助けてくれなくなるのである。

資源は限られるので、立ち直る可能性のありそうな人から助けられていく。

そうでない場合もあるけど、可能性としては世界は残酷であることも認めて、でも希望を捨てないっつーか、

ベントさん的には知識人なら英字新聞ぐらい読むよなっつーのがあるかもだけど、読まない子も海外情勢は興味あるんス。

そんな人の情報収集の場としだな、ベントさん的には、さまざまな情報源の中から自分の意見を比較する人が好ましいだろうけど、それ以外の人でも、その情報は役に立たないかもしれないけど、と別のお題にうつるな。

承認されるとうれしいのは自然なことです。ですから、親切にされたり、悩みを相談されたりすると、自分を認めてもらえているという感覚が湧き、相手との心の距離が縮まります。そして、相手に対して、わかり合える存在としての「依存」が生まれます。これは、人間関係構築に必要なことなのですが、日々顔を合わせていると、この感情がエスカレートし、トラブルを招くケースがあります。なぜなら、依存と攻撃は表裏一体だからです。

 自分の存在を認めてくれる相手に対しての依存が高まると、相手からの見返りを、多く期待するようになります。「もっと私を見て」「もっと私に構って」という思いが強くなり、その期待に応えられないと、「あなただから話したのに」「あなたなら受け入れてくれると思ったのにひどい」と、途端に機嫌が悪くなり、悪者扱いされます。たとえば家族や恋人の関係は依存度が高く、他人には見せない攻撃的な面を見せるということでも、おわかりいただけるのではないかと思います。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171211-00199803-toyo-soci&p=3

僕なんて、どーでもいい教に帰依しているので、忘れっぽいこともあるし、許せないことがない、嫌いな人がいないんである。

僕を打ちのめさない程度の理想というか、期待しないけど期待する気持ちというか、

世界を変える人ではないけど、世界をちょびっとアップデートするってルイ君ですな、の有象無象の生き方というか、

ここではないどこかにあこがれつつ、打ちのめされない努力をする生き方をする条件てなんだろ?

と相方が珍しく起きたので、ここで終わるっす