いつかのネタ、意思と知識

家庭的な愛情にも金銭的にも何不自由なく生まれ育った人が、それで幸せになるかというと、それらをモデル化して統計的に処理すれば、その近似は出るだろう。ただ、そこには、個の自覚も愛の出会いもない。そして、個の自覚と愛の出会いは、そうしたモデル化した幸福を棄却するかもしれない。

クレシン映画「逆襲のろぼとーちゃん」?僕はぐっと来たが、相方はくだらなく思ったらしい。

最後、ひろしとロボとーちゃんが父親の座をかけて争った時、みさえが「がんばってあなた」と言って、しんちゃんが「がんばれとーちゃん、ろぼとーちゃん」と発破をかけ、ロボとーちゃんは敗れた。

ロボとーちゃんはみさえがひろしを応援したと思った、自分の心で負けていると思ったので、もしかしたら愛するみさえの希望を叶えるために負けたのではないか、で、後味悪いのをしんちゃんの無邪気さが救ったというか。

ええ、根拠ぜろというか、僕の読みは外れるからというか、前の映画なのでかなり記憶違いも入っていると思うけど。

何かがあって僕はそう思った。でも他の人は違うことを思ったかもしれない。

人が嫌な思いをするの、僕はそう思わなかったからと言って、オブラートに包まないの、人に嫌な思いをさせるかもしれないので、そうはしない。

大勢の人が気を使って、実際はそんなこともないポリコレかもだけど、まあ人を傷つけないのが第一だから気にしないけど。

先日読んだ「ダイアローグ」で書きすぎは良くないと言った。

読者に察せさせること、と、子供が対象年齢1,2歳上の本を読んでいて、なんとなく中学生で「罪と罰」を読んだことを思い出すのだが、サスペンスとして面白くとも、大人が面白く思うようには面白くなかったとは思う。

それはそれで一つの読みだとは思うが。

一つの体験で病気になるのはありふれたことだが、自分が体験するとまた重みが違う。

夢を諦めねばならぬことは小説としてありふれていて、実際に体験するとえぐい。

疑似体験は疑似体験でしかないが、自分を絶対視しない、人の世界を知ることは、世界の在り方の多様性を知ることは、何も知らないよりいいか、知るってことはどういうことなのか、じっと考えている。

僕は知らないことが苦痛であるということでしかないが。

他人を尊重するとは、その人の世界を知ることで、私にも人権があるように、私の思いとの調停ということにはなる。

利益が合致しなければ、敬して遠ざかることもあるだろうかな?

私は親しい人にゲイだ朝鮮人ユダヤ人だと言われない親しさしか経験していない。

言われなけば気づかないこと、であろう、で、その人が気にしているのなら、受け取る想いではあろうが(経験していない)。

まわりが揶揄して黙っている気持ち、なってみなければまた分からないものだろう。

自分が同じでないものになったっつーそういう思いはずっと自分一人で抱え込まなければいけないのか。

望んだものが手に入る、そういう人生は稀であって。

自分の思うがまま行動したい欲、それで受け入れたい欲、自分もないわけでもないんだよなっぽく。

それを目指して少しずつ世の中を変えていくこととか。

finalventさんが与えられた偶然環境ですべてが決まるのなら、意思の問題はっぽく書かれていたのが引っ掛かっているっす。


知ることは比較すること、最近、「比較」ってテーマっす。

まあ僕の知識の追及は正しいことをしたい欲と絡むかな?


と、訂正、救いはガンプの愛、ですね。それも奇跡にしろ。