主観と客観(その2)

日曜はイオンに行くことになって、いつ撤退するのか心配していたんですが、今のところその心配はないな。

車を止めれず、帰ることにして出口まで1時間。

出口付近で空きが出たのを幸い、停めて、入り口付近のベンチでユニクロ行った相方を待ちつつ、ベビーカーの空きを待っていたら(全部出払っていた)、20分ぐらい待ち。

高知って、ツタヤのDVDレンタル定額貸出しサービス外なんすけど、っぽい感じでした。


客観というか、大勢の人が一致する見方はある。

みんなの意見は大体正しいの大体というか、外れることはある。

みんなの意見に収束されないのが、私です。

客観というのは(宮台用語の)世界になるか(?)。決して手に届かない。

私が思うところの意見と、みんなの意見が食い違うとき、ま、それでもいいんじゃない、のだが、

うるさく訂正を迫られるとウザったいというか、反発が生まれてしまう。

自然体じゃないというか、いや、自分、自然体を至上の価値にはおいていないと思うんだが、反発って黒い気持ちというか、執着が生まれるって、必要以上に意識するというか、うーん。

いや、アラフィフ独身の人の結婚しろに対する反発とか、どーなんでしょ。

人は人と分かっていない、しかし、他人の事と割り切れない近さもあるだろうか。

他人の希望に添えないって結構悲しいというか、ありたい自分と実際の自分との差は、どう埋めるかっすねー

意識高い系が痛いとか、ありたい自分になる方法がずれているというか、正しい方法が分かるルートは飲み会かというか、正しさって何だろう。

情報の流通ルートに乗っているか、偽科学を信じるのか。

より正しい方法があると信じるにも、全くの無知では正しさが分からない。

口伝えの噂で正しさを検証するしかないのかって、どの集団に位置するか。

階級が違うと話が合わないというのはあると思っている。

集団のなかでの正しさ、客観性じゃないものを信じる。

悲しさが生じる、孤独である、のか。

みんなに埋没できたら楽だろうなとは思うが、そんな同意を求められるのにイエスというくらいなら、孤独に生きさせてもらいたい。

選ぶことのできるのは幸せだと思う。

finalventさんは皆の承認いらねって言いきっても―たな。

私は、みんなと歩調を合わせることも必要だし、自分の時間も必要だしの中途半端ではある。

ここんとこ、自営業(?)で食っているベントさんと、会社員で外で稼ぐ価値を提供できるか自信のなさの自分との違いって感じもするが、自由のために命を張れるか。


自由に生きるのに、世間からの突込みなしで行きたいのか、アメリカのマイノリティを思う。

マジョリティからの突込みが全くないのが理想か。

マイノリティに対する強制力無しに口にするのと、口にするのもはばかられるのか。

それはそれでいいけど、僕の意見もある。あなたの意見を聞くのと、私の意見を聞いてもらうのが、平等にあるってのが僕の理想なんだよね。

その場その場の正しさと、しかし画一的なルールもなくては、社交にならない。

強制力の有無は判断できない。

ディズニーの警察ウサギ、みてないんだよなー(なお、スタンドバイミーを4日以内に見なくては)

「私」が言われたくないことを人に言われない強制力はあるのか。ユートピアはあるのか。

自分の思い通りになるのがユートピアなのか。そこを目指して人類は進む指針とすべきなのか。

嫌な思いとは一体なんなのか。

自分の思い通りにならない他人って何なんだろう?邪魔者になる?

気にくわない部分もある、でも好ましい部分もあるってのが、他人です。

嫌な部分だけ切り離すこともできない。

嫌な部分と好ましい部分の差し引きで付き合いたいかが決まる。

好ましい部分が少ない人とは距離を置く自由と、それができない不条理と、飲み込むしかないにしろ、愚痴も許されない世の中も嫌だが。

全ての人に好ましいことはなく、行ったり来たり変わっていく、変わり続けることはいいことなのかなーとよく分からないオチ。

ハリネズミのジレンマ、でしたっけ?かなり好きです。

なお今日は会議の場所の都合上、時間休みをとってます