レッテルというか
縄文時代にプログラミングの才能があっても、ないのと同じ、と言うようなことは聞く。
ある人には色んな才能が有り、才能がなく、性格がある。
いろんな集団に所属すると、ハブにされる恐怖もなくなる。
いろんな集団に所属する自由と、一つの集団に所属する自由。
一つのってこともないだろうけど、全人格を求められる場合のは家族であり、共同体か。
自分の色んな長所だけでなく、欠点も認めてもらえる。
集団を作るって、私のマイテーマなのだが、機能集団と共同体と。
自分がメリットを感じられる間・集団がメリットを感じられる間に所属する離脱自由。
ちょっと方向転換。
縄文時代のプログラミングの才能、外から見て分かる違いがない。
分からない違いの場合、ないも同じで、ある。
フビライ・ハンの時代(適当に気分で書く)、ああ適当チックだが、イスラム教である・無しは重要で、滅ぼされた国、のアイデンティティはどの程度であったか、文化とは何か(適当)
人との差異がアイデンティティか、いや、好きなことはあるかってそれも何かとの差異だ。
僕は留学したかった。いや、仕事で海外行きたかったとプロフに書いてあるけど、当たり前が当たり前でなくなる、カルチャーショックを受けたかったんスよね〜
差異が感じられないって、のっぺらぼうでもあるけど、不都合が感じられないのは自己中でもあるか。
で、自分の中の大きな大事なものと、外から見える大きな大事なもの評価って別で、見られたい自分と実際の自分の立ち位置と言うか、自分で大事でも他の評価はどうでもいいかって、自分の価値観と他人の価値観か。
自分の価値観を話し合う場がある、この世の中のどこかきっとと言うのが、ここではないどこかで、他人の拾ってくれない自分の切れ端。
(自分では価値のないものに、価値をつけられ、その他の人と一緒くたにされるってよく考えたら不思議っつーのを掘り下げたかったんすけど、今日は無理かな〜)
人との関係で自分の立ち位置が決まる。
人は人と関係なく生きることはできない。
新しい言葉、新しい集団ができるってことは、差異に価値があるときで、価値のない集団とは?わざわざ集まろうとしない。
アイデンティティ、私が私であるというとき、他人の価値観をぶっちできるって、どんな時、どんな人か。
自分の価値観をもって、分かってもらえない感がないとはどういうことか。
「わたし」を受け入れてもらいたいとはどういうことか。
って、僕は揉めないことが大事で、人と付き合うときに自分を変えていくのは苦痛でないが、ある点においては相手に譲ってもらいたいというのもあるわけで。
自己の放棄の程度問題で。
というか、世の中絶対に言ってはいけないことってあるよなと思った、地雷人って結構多いのだろうか?
僕は何か、踏み込んではいけない世界ってあるようにも思っているな。
うーん、「関係」とは何か、かな?
人と人とが付き合う際、理解できない点があって、理解できない点、見ないふりをする点の大きさ。
うーんうーん、機能集団と共同体と言う点か、相互扶助の相互とは?あたりか、主観と客観か、(いつかの)次回突っ込むべきは。
(なんか今週は体調が良しというか、竹田青嗣が朝日カルチャーセンター新宿で今度出す欲望論哲学の公開講座を8月5日にするそうですよ、ポストモダン思想、分析哲学、実在論的形而上学の三極構造を解説しつつ、欲望論哲学の新しい主題へと踏み込む(講師記)、
というか物語三昧のオフ会の日と一緒かー
オフ会、未だに迷ってないでもないけどうーんうーん)
(追記)
存在することとは?実際の場に置かれないとないと同値になる。
適応できるか否か。