働く 哲学最初の一歩
病気になって何が出来なくなっても、死ねとは言われないだろうけど、生きていて良い(というのも上から目線だな)、役に立てなくなっても何かの役に立つことはできないのか(?)考えている。
CANのできることが少なくなっても、精神的に悟って、周りの場所を確保することはできるだろう。
(いつか精神的な自立について書きたいかな?)
じゃ、それ以外の正当化の理論は?
- 作者: 立正大学文学部哲学科
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どんな仕事にも、自分の可能性を追求するという側面と他人の役に立つという二つの側面がある。
もっと問題なのは、能力を自分の仕事の価値や自分自身の価値と同一視することで、僕たちは自身の存在に条件をつけることになるということだ
竹内聖一、覚えとこう。かなり、まとめられている。
なぜ、それができるのかと言われたら、天与のもので、それに関して自分の努力ではない。
でも、できる自分はできない自分とは別物であり、できることを前提にじぶんのアイデンティティを組み立てるしかない。
まあ、人間何でもできるわけでもなく、いつか壁にぶつかるんだろうし、年取るし、できることを支えにしていたら、その自分は放棄せざるを得ない。
諦めていくことが人生だと私は思っているのだが、それで最後の残るのは何だ?
他人の役に立つほどの能力はなくとも、自分ハードルでできないことをできるようになる喜びを追及すっか?
かつてほどでなくても、
人と人は与えあって、その人でないといけない、絆ができると思っている。
過去の積み重ねで、それがなくとも繋がりが切れないのが血が繋がっていることである。
私が私であり、欠点を含めて認めてもらいたいのが、家族である。
欠点と長所を秤にかけて、長所が少なくとも、付き合うとき、その人自身を見ている、と言えるのか。
極端だけど、それはあからさまになる、可視化されるだけで、長所が多くても欠点を含めてその人を見ている、となるのは?
まあ、気にくわない欠点を見ないようにしているか、その部分を受け止めているか?
欠点を受け入れる、というのは、欠点を否定するのでなく、相手の欠点に合わせて、自分の行動を変えていくこと、であるだろうか?
できないことが多ければ、相手に合わせさせることが多くなる。
それでも、持つものない自分が、持てる相手に、譲る部分を持てるかどうか、で自尊心が保たれるか?
こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち (文春文庫 わ)
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イーブンであること、ができることの与えあい、以外になんかあるかなーない気がするけどなー
人を動かすとはどういうことか?の切り口が良しだろうか?