拘り=生きる意味
えーと、時間があるときと、もちょもちょ考えることのできる体調の良い日が微妙にずれて、更新が滞っております。
マメに見に来てくれる人、すまん。
「新しい「古典」を読む」を読み返していて、隆慶一郎で引っかかった。
ヴァレリイの知性は認識の極限を追って、遂に何物かであることを拒否するという完璧の答を生み出すに至った(中略)。ヴァレリイの鋭い眼はこの仮構された底を設定することの無意味さ、その無力さを洞察した。彼にとって重要なのは下降してく歩みだけだったのである。あらゆる人間的条件をふみ超えて迄も、唯その歩行の正しさのみを信じてこの深淵を下降していく彼の姿には、最早ニヒリズムなどという気のきいた言葉を以って覆いえぬものがある。己の精神がより真実であるためにはすべてを捨て去ってくいることのない彼の姿は、激しい強靭な意志によって貫かれている。最早虚無などというものは存在しない。(後略)
https://cakes.mu/posts/13559
隆慶一郎からの引用っす。
真実があるのではなくて、真実を追う状態こそが真なのである?っぽく。
海燕さんが、「正しいことを言うことを言うので、ぼろカスに言っても受け入れられるわけじゃなく、真摯な態度で言うから、受け入れられる。」っぽいことを言っているのを思い出した。
ひとつ前の記事で、天啓とかわけわからないことを言っているのは、私にとって、思考する、頭の中の言葉が、自分にとって自明のものでない、自分が何でそう考えるのか訳わからないものであるから、天啓なんだにょ。
人にとって、思考は唯一のものでありながら?、根本では説明できない、他人と共有できないものだ。
正しい認識は他人と共有できない。
では、正しさを追求する態度、状態は、他人と共有できるものなんだろうか。
って、人の生き様じゃんと一瞬で否定されました。
ただ、何をいても正しさを追求する態度というやつは、自分にとっての不利益をも振り切って追及するのならば、私のテーマ、「損をしないと、痛みがないと、自分の人生を生きたことにならないんじゃないか」と繋がるんだよな。
それでいうと、正しさの押し付け、自分の正しさで他人の行動を嵌めることに疑いがないことは、損の覚悟の有無で、「自分の人生を生きたこと」になるのかならないのか。
というか、ニヒリズムがそもそも分かってないのか?
ニヒリズムに陥るとはどういうことか。
大辞林では、ニヒリストが虚無主義者って出た。「虚無」は「価値のある本質的・本源的なものの存在しないこと」だそうです。
己の精神がより真実であるためにはすべてを捨て去ってくいることのない彼の姿は、激しい強靭な意志によって貫かれている。最早虚無などというものは存在しない。
損をするには、強靭な意志が必要で、そこに価値はある。
僕は最近「生きる意味」の設定はやっぱり、しないほうが生きよいか、迷いが入りつつあるのだけれど、
「価値」は「善きもの、望ましいものとして認め、その実現を期待するもの」
どうでもいいものに意思の強さは発揮されない。こだわりは良いものである?
こだわりがあると生きづらいのは確かで、価値があるから拘るのか。
「生きる意味」は生きる拘りか。
私が何もできなくなったとき、拘るのは何だろう。
私は、人はどうあれ、ありたい自分であることに拘るが、
と、動機づけについても考えていて、どうすれば拘りが生じるか、差異を見出すか
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と、冒頭の海燕さんネタ、兄弟に怒鳴りつけたときに、自分に納得できないことでも、他人が必死になっていたら訳わからなくても譲ってくれよ。
譲れないのは、自分中心主義、我儘全開で、結婚しても不幸になるだけ、
と自分は棚に上げて思ったんだが(秋津が必死になるのは、珍しいのにで加点対象にしてようという我儘です☆)。
言っている事実と、尊重してもらうための態度、正しさを通す態度、「育休中はご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」について考えてみたいかなっと
あと、ついでに書きたいことネタを突っ込んでおくと、僕は、「死ぬことと見つけたり」の「死者の国」の段は分からない。
これは自分がなぜこうあるのかというのに、自分のルーツを考えたことがないのに、関連しているような?
そっちを考えるには、あと8年ぐらいかかりそうなんだか。