不利益を受け入れる覚悟と人生に対する納得

ただ、何をおいても正しさを追求する態度というやつは、自分にとっての不利益をも振り切って追及するのならば、私のテーマ、「損をしないと、痛みがないと、自分の人生を生きたことにならないんじゃないか」と繋がるんだよな。

それでいうと、正しさの押し付け、自分の正しさで他人の行動を嵌めることに疑いがないことは、損の覚悟の有無で、「自分の人生を生きたこと」になるのかならないのか。

と書いて、なんだかろくでもない結論に達しそうな予感がしつつ、掘り下げてみる。

またしても私のテーマなんだが、「選択をしないと(自分で決めたことでないと)自分の人生を生きたことにならないんじゃないか」がある。

強いものに流されても、将来のデメリットを考えての上だとありだが、基本、流されることに私は否定的だ。

キャリアには目標一直線の山登り型と、でかい組織だと配属先決められない川下り型がある。

川下り型も選択肢がないようで、川が二股になる、選択肢がある場面があって、選択をするのに後ろ向きの言い訳ばかりする人は職業人生の満足度が低く、積極的に未知を楽しめる理由の人は高いんだと。

論拠の本を読んでいないので、精度は知らんが、同じことでも楽しんだら人生楽しいし、つまらなく思ったらつまらないの循環です。

ちょっと例えがずれるが、拘って人生詰むことはある。

死にたくなるなら、仕事辞めろと言われても、やめたら迷惑がかかる人の心配をする共同体。

アイデンティティと自分の欲求が反するアンビバレントになるときはある。

どちらをとるか、本当に自分の望むことはどっちだって、どっちも大事だから詰むんだけど。

判断力もなくなるし、恐怖の惰性で、進む。

本当はこんなことはしたくないのに。で、満足度低い人生。

恐れていると、正しく危険性を見積もることができない。

まあ、家を買って、仕事変えることはできませんだから人生で、自分の満足度と家を簡単に秤にかけられないのが一般人です。

と、

秋津君、中二だか中3だか忘れられない小説である。

なんだか悪い魔術師っぽいのが、野球クズカードを小学生の欲しかったプレミアムカードに見せ、小学生は取り上げられる恐怖で、不本意なちょっと悪いことをするのが、町の人間関係が崩壊していく。

自分の大事なものって錯覚じゃない?という自由を得るためには、今の自分の絶対視も怖いっす。


元に戻して、選択をしない楽に流れて、それは思った通りの事態にならなかったとき、納得できるのか、できたら、選択をしたってことになるんじゃないか。

(他に方法がなかった。って無気力な人もいいそうだ。僕はリバタリアンなので、僕から見た不幸より、当人の幸せを認めるので、欺瞞の影がなければ不幸を認める。)

というか、痛みの覚悟は拘りで、現在の楽と将来の不利益を考えたら他の道を考えることになるので選択か。

選択は、それをしない状況も、自分が取れると思っておかないと選択にならない。自由であること。

そのうえで、その選択肢しか取れない私が私である拘り、価値観。

納得する、ありのままを認めるのと、痛みと拘りの関係は、傷みを受け入れる覚悟を決めたらありのままを認められて、納得できる?

キーワードは覚悟か?痛みを受け入れる覚悟(諦め)は快の追求を諦めるという選択肢がある。

それでいうと、正しさの押し付け、自分の正しさで他人の行動を嵌めることに疑いがないことは、損の覚悟の有無で、「自分の人生を生きたこと」になるのかならないのか。

楽しいことをするのは当然で、理由は、覚悟はいらない。あとで思いもよらない結果になったとき、どうその状況を正当化、納得するか?人のせいにするか???自責に向かうだろうか?法則性はあるか?

正しさの押し付けは、押し付けられる人を個人として見ていない。では、不快を無視する快の追及は、多面的である物事を(人生塞翁が馬というか証明略)一面でしか見ていない幼さというやつであろうか。


優等生の憂鬱っぽいことを橋本治が書いていたが、世間的な評価以外に自身の評価を持てない詰まらなさというか、それを認めるのも人生だけど、好きなことがない、好き嫌いの嗜好が、拘りがないとは大切なものがないということで、

一方で、選択していない状況とは、それが唯一絶対のものであるかもで、私は絶対を設定していない(したくない)ので、選択肢がない状況の考察は少しつらい。

(矛盾があるの整理をどうつけるか)