自分の道と破綻した価値観

この記事はブレストタグで色々と何かが混線しています。うーん、でもせっかく2日もかけて書いたので。更新回数稼ぎです。

話題転換して、僕は健全なので、働けなくなっても、自分のせいじゃないしーとする逃げ道は確保できる。

というのを考えていたんス。

リクルートの適職診断の指標に、何かが起こった際、自分の努力の結果か、運命かの割合を示す指標があった。

起こることのすべては自分一人で切り開いたのではないし、全てが他人のおかげではない。

どういう塩梅がいいのかと言われたら、程よく自省心が持てて、自尊心も損なわれすぎない程度としか。

たまには落ち込むこと、自身の価値観もひっくり返さないとさー

で、私はなぜか「選択」しないと人生を生きたとは言わない気がする信者です。(なぜか考え中)I

すなわち、自責の割合が高いんすよね。

でも、病気になったのは私のせいじゃないしーの他責志向で、このよく分からない切り替えは、説明できるのか。

成り行きでないとき、あまたある価値観の中であえて本人が選ぶ理由に共通性はあるんだろうか?

も考えていて、自分の価値観、なんでこうなってるんだ?

ああ、これは宮台せんせーが、大学生になって東京に出てきて、最初に民青とか、統一教会とか、どこで鍋を囲んだかで所属が決まるサイコロ問題か。

どこまでが自分の意志でどこまで環境のせいにしていいのだろう。


戦争は正義と正義の争いで、どの価値観にも正義、もっともらしさはある。

先日、兄弟とケンカしたけど、自分のことを棚にあげて、兄弟は兄弟で自分の正しさを疑わない世界に生きて、完結している。

自省心なくして、また同じことの繰り返しだが、気づきがなければ、周りの(環境の)せいでも処理できる。

(なお、秋津君は人生において、兄弟以外に怒ったことがない、これも兄弟に対する甘えかのうだが)

誰しも自分の世界に生きて、破綻がなく、


えーと、書きたかったことに話を戻して、過去なくして自分がない。

論理的な絶対正しいものがないのなら、何に拘って価値観を決めるか。

私が私である理由はなんなのか。

入れ替わりで耐えられる正義ならば、私の意志は環境より大きい。環境に左右されなくある。

しかし戦争責任というとき、私を構成する環境を大きく私の人格に含めている。環境なくして自分無し。

私に責任がある因果関係をどこまで認めるか。

意思による因果関係を認めること。

過去を認めること、ありのままの過去を。

過去は私の現在の意思とは別物である。私の意志が変えようのない外部環境になる。

当時の意志はそれはそれとして棚上げ。自分とは別。相対化するありのまま。

真理は何にとっての真理。隆慶一郎。現在の欲求、思考だけが真理である。(デカルトの瑕疵はなんじゃろ)

真理にとって時間軸はなんだろう?

意思は睡眠不足で変わる。過去との継続性は?常に一定のものでない。

過去のしがらみ、経験が私を作る。自己に再帰性(言葉の意味よく分かってないかも)はなく、自分の未来を言い当てることはできない。

天啓でしかない直観、誰とも共有できない自分と経験はどっちが重いかと言われても。

生得的なものは、努力のない意思とは別で、でも考え方のくせはある。

私がそれしか生きられなかった不合理は何がもたらすか、

相対化できない真理は解釈を受け付けない、客観性か。誰からも正しい。

より正しそうな起こる確率の高いことを判断する理性、望むところへの道は他責が近いか自責か。

ありのままを認めると、願望を殺す。生きづらかろう。考えを世界にあわす。

自分の価値観と世界の合わない破綻した部分、はみ出した部分はあって、責めたら楽。

ルサンチマン、暗さがあって、でも、前向きでないって言われても生き方の一つだし。

自分で価値観を選べない(納得することができるかに自分の意志は関与しない。頭でわかっても納得できない)

また、因果関係をどこまで読めるかは、個性の範囲内だし。

鍋を囲んだ人で変わるかは仮定であって、事実ではない。

自分の経験を大事にするのは当然で、そこを超えた論理、自分の経験ではなく、大勢の人が起こる(思う)ことにどこまで納得できるか、は、個性の範囲内で。

相対的に見ることができる限界と、独善的に生きるということ。

自分の考えが世界の在り方を正確にどこまで読めているかなんて、本人には分からなくて、余計なお世話。

自分勝手に生きて、飢えない場所は素晴らしい。部分的には自分勝手な場所を、かな。


環境と生得的なものと自分(意思)とは? 私はなぜか「選択」しないと人生を生きたとは言わない気がする問題、真理と時間が次の課題っす。

デカルトも読んでみたしか。と言ったらカントに流れるし、サルトルまでつってたら、腰を据えないとの7年後、ブログやってるかな