伝聞と経験

アメリカ映画の女性はキンキンとうるさく、あれが理想の女性であるものか」説なんすけど

その彼の前記の告白、「われわれが遠慮なく真理を語っている時は、相手に憎しみをもっている時か、全然人間的な愛情を持っていないときだ」を読んだとき、『旧約聖書』の筆者が、何をサタンと呼んだか、なぜ神の傍らなる告白者を悪魔と呼んだか、おぼろげながらわかるように思いました。

この、二千数百年をへだてた二つの記述の背後のあるものが、人が義を口にするとき、正義の側に立って告発するとき、それが実は憎悪であって「愛」ではないという恐るべき事実の指摘です。

『他者を人として見るようになると、人種、民族、宗教などに関わる問題もそれまでと違って見えたり、感じられたりするようになる。つまり、希望や夢や恐れを抱いている人々、それにきみ自身と同じように自己正当化している人々も見えてくるはずだ。(When you begin to see others as people,’ Ben told me, ‘issues related to race, ethnicity, religion, and so on, begin to look and feel different. You end up seeing people who have hopes, dreams, fears, and even justifications that resemble your own)』
『でもあるグループの人々が別のグループを虐げているとしたら?』私は尋ねました。
『その場合、虐げられているグループは、自分たちが虐げる側にならないように気をつけなければいけない。それは陥りやすい罠だよ。過去の虐待という正当化の手段が手元にあるわけだからね(Then the second group must be careful not to become oppressors themselves. A trap that is all too easy to fall into,’ he added, ‘when the justification of past abuse is readily at hand.)』
『彼らが単に不正をなくそうとしているだけだとしたら、どうして彼らが迫害者になるのですか?(How would they become oppressors themselves if they simply try to put an end to injustice?’ I asked.)』
『不正をなくそうとしている人々の大半は、自分がこうむった思っている不正のことしか考えないからね。つまり、彼らが本当に関心があるのは不正ではなく、彼ら自身のことだよ。自己中心の考え方を、表向きの大義の陰に隠しているのだ(Because most who are trying to put an end to injustice only think of the injustices they believe they themselves have suffered. Which means that they are concerned not really with injustice but with themselves. They hide their focus on themselves behind the righteousness of their outward cause.)』そうベンは答えました。


極東ブログ[書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート)
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的に同意もしたくなる。

が、ですね、実際に秋津君がそんな他人を責める女性を知っているかというと、一人か二人、しかも自分に実害はなしで、きっついこともあらへんやろ、というか、わざわざフェニズムというカテゴリーと作らなくても、

その女性の個性と認めたほうがよろしかろ、である。

どちらかというと、秋津周りの女性は、ねぽりんはほりんで、保育士さんが、彼氏には、5万もするバックが欲しいけど、高いので似た1万のバックが欲しいと言ったら、5万が買ってもらえる的ライフハックの女性が多いよね。

正面切って、正義を語ると相手もムカッと来て反発して問題が解決しないので、下手に下手に、

いや、「育休中ご迷惑をかけてすいません」問題は引っかかっているんすけどというか、

次のネタ的に為末大氏の新聞記事とか、人間が描けているか問題とかあるんすけど、閑話休題で元に戻して、

なんか、伝聞でフェニズムカテゴリー作って自分が被害者意識もっているよね。

というか、一方で「最近、家事をする夫がそれでも妻に認められなくてつらいって、それは、女性が通ってきた道で、いまさら自分だけがとは思うなよだけど」

の時の夫の立場も分からなくはない、人はどうあれ、自分がつらいんだよ、というときは全く伝聞を問題としていない当事者問題で、

伝聞カテゴリーと伝聞をかなぐり捨てる当事者問題と、自分はどこで切り替えをしているのか?

単に自分ってかわいそうと思いたいときのみ発動しているのか、掘り下げてみたいかなっと。