ミソジニーと戦争責任

フェミズムについてボーと考えている。自分はミソジニ―(女性嫌いという意味に思っているが正確には知らない)であるだろうか。

と、なんだか、戦争責任問題ってこんなことなんだろうかと思ったというか。


ずいぶん昔の橋本治アメリカ映画の女性はキンキンとうるさく、あれが理想の女性であるものか(適当)と書いていたような、それに納得した自分は、あんまり自分の権利を主張する女性は苦手だ。

というか、橋本治は、謙譲語の美徳を書いていて、「つまらないものですが」の威力というか、

私なりに思うところでは、

寛容論 (古典新訳文庫)

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的、相手を説得するには相手の価値観に沿って、メリットを説明するしかなく、相手の価値観に全く触れないことを強制するのは権力の強制問題だ。

相手の意を変えさせる怖さ、はしみじみと感じている。

夫婦共働きが当然で、秋津家は料理はほぼ夫当番なのよ的な状況で、男女平等でないと言われたら辛いから苦手意識は有って、しかし、昔は通りすがりの女性の尻をなでても、にっこり笑っていなさないといけなかったとか言われると、そりゃ意識を変えて当然だとは思う。

強制力を使わないと、それは権力(男性)の側に任せて置いたら変わる速度もゆっくりだ、というのが現状の日本の問題か。

結局、女性は仕事と家庭と趣味の三立はできなし、というのは、三立出来た時代ってあるの、とはあるとは思うが、理想に向かって努力はしないとというか、

夫だけが仕事に集中できるというか、集中できるものを「選択」できる自由はあるというか、最近、家事をする夫がそれでも妻に認められなくてつらいって、それは、女性が通ってきた道で、いまさら自分だけがとは思うなよだけど、

女性は相手に嫌な思いをさせられたというのなら、自分も相手に嫌な思いをさせないようにする努力はしてもらいたいけど、

でも、夫婦ともに趣味の時間がない、必死に目の前のことをこなさないといけない時期はあるだろうし、ギスギスはして当然かもである。

僕ンところは、お互い、というか僕は相方が一生懸命になっているのは分かるし、自分もワガママ言ってられないなと、身を引き締める思いなのだけど、

お互いを思いやるってどうスイッチを入れたらいいのか、

ってまだ結婚する前に、相方が自分にしてくれたことは、相方にとってはとっても自己犠牲的だったかもだけど、僕は結構どうでもいいことだったんで、自分でできるし、的に

険悪な雰囲気になったことがないでもなし、一度ぴっしり言ったら、かなりショックだったみたいというか、結局直んなかったんだけど、僕もそのことについて触れるのは有り難いとは思うんだけど別にいいけど、という言葉は二度と言ってはいけないなと反省したものであるよ。

何が常識か、何が普通か、育った家庭によってというか個人によって、全く違うし、擦り合わせができないと辛いのは当然だ。

僕んちは結構、自分的には上手く擦り合わせができていると思っているけど、相方の負担が大きいかもですかね、で、

ああ、ミソジニー問題がどっかいったな。

人の価値観の擦り合わせは結局、軋轢を生む。

たくさんの人が気持ちよく過ごすとはどういうことか。

大勢の人が正しいとは言えないし、少数者の意見を汲みすぎてもしゃべる話題がなくなるか?

下世話な好奇心は封印すべきか?心おきなく話せてこそ楽しいけど。

というわけでだれが権力を握るかで正しいことはころころ変わる。

誰にとっても心地よい空間はなくて、我慢する程度はあって、誰かが天狗になるのではなくて、最大多数の最小不幸がいいのかと古い結論で、

虐げられた思いがあると、キッツく言える機会があると、ぶちまけたくなるのが当然で、キッツく言える機会があるってことは、権力がもたらされたってことで、そこでぐっと我慢できるほど、秋津君も大人にはなりにくいか?

自分ができないことを人に要求しても仕方がないしな。

秋津君祖父は秋津君母に、部落の人が今(って何十年前の当時かしらんが)少しばかりいい目をしても、しょうがないと思える当然の思いをしてきたと言ったそうだというか、

戦争責任ってことなんだろうな。

自分は関係ない昔のことだって思える能天気さと、嫌な思いをさせた状況があったことに思いをはせるか、自分がどういう選択肢を取るか、他人に強制力はなくて、自分はまあちょびっと不満だけど、みんなが満足な状況ってないしなって納得できるか、自分が納得できたら人にどうこう言えないしと心は痛むけど、と繰り返す秋津君であった。未だ市民になれず?