言葉が鍛えられる場所

ちょびっと、兄貴のメールに何だかなーと思わなくもなかった土曜の昼。

冷静によく見ると、単に思ったことを書いただけっぽくも思うのだが、一読すると、いや、よしとこ。

ちなみに僕のメールは誤解されないように誤解されないように書くので、一般人と比べて長めです。

よく言えば親しき仲にも礼儀ありなんだろうけど、逆に人を信頼しきっていないともいえるかもです。

人の批判ではなくて、事の批判をする。日本人はすぐ人格を傷つけられたように思って面倒くさいとよく見るような見ないような、

事を批判して、人の非難をしない、人に対して愛を持つには?持たなくてもできるんだろうかというか、人格の批判が許されるってどういうときなんだろう?


言葉が鍛えられる場所

言葉が鍛えられる場所

うう、平川克己、よいかも〜

この本、文庫本で買おうかなと思うと、出版されてから、半年もたっていない。残念。

私の辞書は「自分の言葉が相手に届かない」と言う文脈がない。

私の言葉が理解されなくて当然、私の人生とその人の人生は別物で、でも、理解されない私をその人が尊重してくれることを望むし、私は私を理解しないその人を尊重する回路こそが大切だと思うからだ。

つまり、事の批判をしても人の批判をしない(うーん、理想家)

言葉が届かないのは前提で、そこから先、理解し得ないままどうやったら協力し合うことができるかの方法は考えるが、届かないことに対しては悩まない。

問題意識は微妙に違うんだけど、切なさに関するエッセイとか、私の辞書にはないけど加えてみたいかなーと思う。

どちらかと言うと小学生に丸暗記させる論語っぽく、今は分からないけど、必要とされるときのストック的に。

で、この平川さん、安倍総理がお嫌いなのである。

(略)政治や利権団体の代表のような人間が、お金儲けとナショナリズム高揚を狙って、心にもない嘘八百を並べているのは、聞くに堪えない光景だと言いたくなるのです。

とかなんで総理が嘘をついていると断言するのか根拠が妙にわからない。言葉に対する屈託が感じられないって感じるレベルの批判なのかにゃ〜印象論?

総理が自分の思う通りの理想の人物でないから批判しているとも捉えられて、おもっきし困惑するのであった。

人にはいい部分と悪い部分があって、自分の賛成できる部分とできない部分があるのが当然で、悪い部分の批判が、その人に対する批判にまで飛躍して聞き苦しくないって、どんなときなんだろう。


と、ところで、アメリカのコミックの人気キャラクター「ワンダーウーマン」が女性の地位向上のための機会均等のシンボルとなるそうなのである。

ほぼビキニ姿なのである。セックスのシンボルでもあるそうである。

そうであるって高知新聞からの引用なのだが、と、書かれていないことを僕視点で書くのだが、シンボルってヤンの言うところの民主主義を体現する人物、ってなるのかなあ?

女性の問題はどっちかっつーとダイバーシティの問題っぽくも僕は思っていて、多様であることのシンボル。

「「強く戦え」というメッセージを感じる」と新聞のコメントに合って、男らしく女らしくでもなく、いろんな人がいることのシンボル、いろんな人がいるってことは私が賛同しない人をシンボルに掲げるっつーのは苦しいけど、

寛容論 (古典新訳文庫)

寛容論 (古典新訳文庫)

で人間、人を説得しようとすれば、あなたが非難していることは実はあなたの大事な価値観の大本で考えると、肯定されることなのですよ、と言わざるを得ないというか、

認めるのも嫌な価値観を認めろっていうのは、権力問題でしかないのよね。

多様性のシンボルって、事を批判して人を非難しない愛、赦しを持った人ではないかとも思ったが、それはそれで母性の押し付けとかも言われそうだなとも思った、今の段階ではハードルが高いっつーか、

愛、人類愛は半径3mとは別物でコスモポリタニズムとか、人類平和なんてハードルが高すぎである。

軍艦島だか、結局食い扶持がなくなれば、どんなに故郷を愛しても人はいなくなって離れざるを得ないというか、でも、生きるより大事な価値観てあるんじゃねいの?ってのが秋津の今考えているところである。

気にくわない人がいても、距離を置けば気持ちよく過ごせるよって、

先週の水曜頃の日経新聞経済学欄に、アメリカの作家?が、アメリカはゾーニングされて、金持ちと貧乏人が別人種っぽく、共感がされなくなっている(いい加減引用にもなっていない)、

人を赦せるのって、どこの段階まで赦せるのだろう?

平和は戦争の火種は有りつつ、気にくわないという自由はあって、殴りはしない、人によって沸騰ゾーンは異なるんだろうけど、
損得勘定と自尊心と言うか、自分の価値観とどこまで秤にかけれるものか、少し考えているのでありました。

(追記)
平川さんは上記の本の本章では、

言葉が介在しなくても、通じ合えるものがあるとすれば、それは「愛」しかあり得ないからです

そして、言葉とは究極のところ、自ら消え去ることを望んでいると言えるのかもしれないと思うのです。

ある意味で、言葉が隠蔽し続けているのは、「愛」だからです。

おお、まったく似たことがないけど同質の他人とニアリーしてるかも、と結構気に入った締めだったんだけど、

あとがきで

しかし、関川さんの「義務は愛よりも信ずるに足る」と言う言葉を聞いて、二年間の介護生活が報われた気がしたのです。(略)

あるのは義務と言う名の返礼です。それは、遠い日に受け取った贈与に対する、返礼だったのかもしれません。

とか、いろいろ考えてみたいです。

愛の強制は無理なんだよなーかといってゾーニングで平和は守れるのかなー平和を維持するにはってボソボソと