善意の育て方とは

いや、どう転がるか全然分からないんだが、小学2年生の時の思い出が引っ掛かっている。なぜだ?


小学生の時、毎日、日記を書いて担任に読んでもらうシステムだった。

で、人に良いことをしてそれを書けというお題になった。

私は、文房具のノリ、白い半透明の固形のノリを新しく買って、それを友達に使わせたことなんかを書いたんだよね〜

真っ平らな取り口に、指を突っ込んで跡をつける喜びは、なんというか、真っ白な雪原に、足跡をつける喜びと言うか、ぞくぞくするよね〜

したら、担任が、こんなくだらないことを書いています風味に言ったのが、僕の例でもなかったが、そのレベルのことであった。

いや、重大なことだからって(←?)

新しいものを友達に貸すって、新しいものを得た経験が多いとワンオブゼンにもなるが、回数が少なければ至高の体験である。

小学2年だぜ〜

なお、秋津君は高学年で引っ越すときにその担任にバックをもらいましたっつーか、印象に残る問題児っつーか、いい先生だったとは思うんだけど。(年賀状を書きたいと思いつつ、20余年。唯一フルネームを言える先生(大学教授除く))

私にとって大切なものをあげる♪私の持ち分を割いておめーにあげる。私にとって大切なものはあなたにとって価値が分かるか分からない。

小さな親切大きなお世話かもしれないし、それは何かの忠告でもありそうな気もする。押し付けはよくなし。

と言うか、本当は今日のお題にしようかと思った、「宗教について」(山本七平)に日本人は善意が通らないのは社会が悪いって考え立ちだよねー個人でよくても社会全体で考えると悪いことってあるのにね、的であったんだが。

善意を自分の中でどう育てるべきなんだろう。

私は、善意は一方的なものに思っている。わたしに余裕があるときに行うもので、否定されて当然である。

場を考えたときに、私の義務ではないが、敢えて行うものっぽく思う。

それこそ、なんとなく、こうなるといいな、で、願いが叶うといいな、と、ヒロイズム的なものかもで、願望だな。

そうでなくとも地球は回るであろうが、まあ、少し、願いが叶うことを期待したりして。

世間は私を傷つけようとする力で満ちていて、それでも、めげないぜ〜的なものを育てるってどういうことだろう?

理想が通る世間を、信頼していてないでもない、信頼感はどこから湧いて出るのだろう?