不可能性に殉じる

後期ロマン派とやらに興味がある。

なんだか「不可能性に殉じる」ぽいことが書かれていたような?

理想を持つこととは何か、ぼやぼや考えている。

頭の中にあることで、妄想と一定もいいかもしれない。あるいは夢と目標の差である。

夢を持つことなくして、努力することなくして、実現することもないかもしれない。

だけど、実現の可能性としては低い。

夢をかなえることができる可能性のために努力するのか。

その人に賭けるのは、実現可能性が高いからか、

人に期待するのは、成功する可能性は3割に過ぎなくても、成功する人はいるからか、確率の問題か

信じたほうが自分の精神の統一性が崩れないからか。

理想の実現は結果であって、理想を信じるのは人生の過程である。

いや、目には見えないけど存在する、愛や友情について考えているんだけど。

存在していないと思えば存在していないが、あるとした方が気持ちよく生きやすい。

家族への愛はともかく、有限な資源をどこまで投入できるか、気持ちよく生きるために。

ただ、生きるために生きるのではなく、私だけの価値観のために生きるのならば、気持ちよく生きるために、かなり資源を突っ込むのもありだろう。

私があることを信じたら、この世に実現するものはある、というか、

うーん、実現しなくとも、自分の価値観を大事にするのは有りというか、それが生きるってことだろう。

僕も電車の中でブログネタを考えていて、中二病を卒業できないなーとしみじみしたことであるよ。

こんな阿呆なブログではあって、あんまり人の関心をひかないことである。

でも、僕はジーと妄想するのが好きだし、人に褒められることを目指しても、それが自分の求めているものかと言われたら違う。

もちろん褒められる、人の価値観も大事にしようとは思うが、自分だけの価値観を追い求める場は私には必要だ。息が詰まる。

息が詰まると思う、すべてを理想に賭けられるほど、僕はできた人ではないが、少し、は賭けてみたいと思う。できる範囲で。

不可能性に、すべてを賭けられるほど強くはないが、不可能を不可能と思う、その判断の正しさは、神にしかわからないことである。

と言いながら、「信念は生きるための方便」、だったか、銀英伝のセリフがあって、曲げられないもののために、人生をかけることはあるのか、

そいつにあこがれるのは、家族を持ったらな、というのはあって、生きるために生きる、そういう生き方もあって然りだが、まあ、(理想を信じる)過程を人生でどれだけ大事にするか、

譲れないものと譲れないものを秤にかける経験なんて、しないほうが無難だろうな。

バカな人生だけど、悔いはなかった、と死ぬ間際に言いたいけど。ふぅ