お金と経験と私であること

うーん、今日のお題は、食い散らかしになりそーな。


ちょっくらログ・ホライズンに引っかかることがある。

ゲームっぽい世界に転生っぽいことをしている主人公たちは、死ぬと記憶がいっこなくなるそうである。

飲んでいたときにおじさんが「家族団らん中にオヤジに、(戦争で)人を殺したことがあるのか、と聞いたら場が凍った」と言ったこと、

小3の時の担任が、白い着物を買ってもらった嬉しくて縁日に行ったけど、人とぶつかってカキ氷の黄色がかかったこと。

本で言うと、ファインマンが原爆が成功したとき、この橋もなくなるとおもったこと、でもそれから50年たっても橋は残っているし、そうならないでいいと思ったこと(なんか覚え方ずれていると思う)

小さな記憶の切れ端が私を作っている。

大きな出来事で言うと、大学受験に失敗して、レールを外れて?それでも私は生きることを学んだことかもだし、

ニーチェで言うところで、これ一つさえあれば、人生を繰り返して悔いのない思いでも引っかかっているんだけど(読んでいない)。

一つ一つの記憶は全く失って構わないような気がする。でも、なんか失われると、私が私でなくなるポイントはあるんだろうと思う。

で、お金である。不動産投資か、と思いつつ、東京オリンピックまで4年、バブルも終わるやろ、と思ってあきらめた。

というか、本屋に行って、あまりのバブっぷりにこれはヤバいと思った

しかし、今以上の金があって、何に使うんだ?

子供に留学させてやりたいかな、ぽそっと、というのはあって、でも家庭がちゃんと守られる場所であったら、それ以上はオプションだろう。

先日、デパートに行って、試飲して、さりげにこれうめーっつってワインをためらわずに購入するだけの財力があることに感動した。

いや、うめーだろ、相方にも飲ませてやりたい、とは思ったが、まあそれがあって、人生が変わることはない一方でもしかしたら、これが幸せな記憶として、残る可能性があって、ケンカしたときに歯止めになるかもって、うーん。

finalventさんが薬を飲んで、頭の配線が変わったかもと書いていたが、放射線治療でしんどかった話を聞くし、やっぱり僕も、あれ、ブログ、いつもより深く掘れているぞ、と思ったら、そういえば昨日薬飲み忘れていたな、と思ったことはある。

あるいは、病気しなかった人生を考えることがないわけでもない。

でも、仮定は仮定に過ぎず、可能性だけはあっても今の人生以外はすべて妄想になる。

お金がないことの選択肢、記憶が作られなかったことは、私のピースが足りなくなることであるが、さて、今の人生を繰り返して悔いのない思い出との出会いってのは望んで得られるものでもなしで、偶然、出会う。

その思い出に縛られるという点では、不幸なことだという気もしないでもない。

しかし、私が私であるかけがえのなさになるんだろう。

かけがえのなさを妄想して必死になって追いかけようとするのは、人のサガで、その意思もなくなるのはちょっとどうかということでもあるか。

しかしなー結局は、得られるかもしれない思い出と、それにかけるコストの割が合うのか、というのを考えてしまう点で、わたしには人生に対するロマンがないのかもなー

あるいは、偶然に対する感性ってどう育まれるんだろうというか、流れに身を任せる感性と意思の関係かなー

自分の人生をどこまでコントロール可能なものとしてとらえるのか。

自分の限界を受け入れるには?