信じることと苦しみと
人知に限りは有り、次起こることを100%当てることはできない。
結局、理性っつーのも自分が何を信じているかに過ぎない。
信じることは難しいようで、当たり前にあることに過ぎない。
まあ、そこで確率を持ち込んで、リスクに備えるつーのは有りだと思うけど。
挫折したときに大きな支えというか、何かを信じることは、支えとなりうる。
ここで宮台先生の言うところの、グローバル社会で生き抜くのは中国人とユダヤ人だ、共同体を背負うこと、ちょっとずらすと、
私たちが日本人であるというなら、私たちは『日本人の物語』を描きつつあるのだろうか。だとしてもそこには、塩野七生が『ローマ人の物語』で描いたように、おそらく正義も悪もない。ただ、結果として見れば物語がある。その物語にどう向き合うのか。
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あああ、そっちに流れたい気もするが置いておいて、
でも信じることが苦しみを生むことはままあって、
と、シロクマ先生を読んで、僕とは関心が違うのよね、面白いけどで、ほぼ1年分さかのぼって読んだりもしたんだけど、承認欲求かー
夢、理想を信じて、現実との落差に耐えられるのと、耐えられないのと、何が違うのか。
ぼかー苦しみと共に生きるのはそれはそれでしょうがない人生だと思う。
感情は訪れるもので、選べるようなものでもないし、大人なら誰しも耐えているものだと思っている。
とか、達成感が得られるのは苦難を乗り越えたときで、順調であるのは、飽きるというか、まあそんなことあんまりないから望むし、ありがたいことだとは思うけど。
ただ、若い子の苦しみは、それを中年が笑えるのは、やっぱり乗り越えてきたからで、最初から悟る人生もつまらないし、納得するというのも天与のものだから、言っても無駄だろう。
まあ雰囲気がそれっぽくなったらひとこと言わないでもないが、お節介の自覚は持たねばそれも傲慢であろう。
その子が私と同じ結論になるかどうかも分からない、第三の道を見つけるかもだし。
隣の人と比べて、自分の幸せをはかるのか?
グローバル化で中産階級は没落したけど、食うや食わずの人は少なくなって、じゃあ、日本でビンボーな高知の人は、ガスもある水道もあるー何を不満にするのかって、不安は医療と教育かなー
ペトロニウスさんの言った、グローバルと田舎と二分されていくのではないか議論が面白かったというか、
ええ、都会と違った価値観を確立できる余地って、食べる通信の人の新書を読んで、仕事は仕事でして、2枚目の名刺というか余暇時間で好きなことをする。
選ぶことは捨てることの痛みであるって、未来を当てることのできない人間は、自分の持っているものを捨てて、確実に何かを得られるという保証はなく、タバティ、仕事は年収上の方が面白い、のか。
好き勝手しても、生きていける世とはなんだ?どこでも食えるとは言わないが、私、月12万で暮らしていたのよ、入社から3年ぐらい、である。
子供を加味すると辛いけど、二馬力、最低賃金時給724円になって、さてさて子供を職人にする気ならなんとかなりそうな。
うちの社も実はなかなか年収400万を超えるのはなかなか大変で、それでも専業主婦で子供二人を育てたとか、意外と200万同士で結婚する例は多いらしいが。
信じる背後には、何か大きなもの?があったほうがすわりが良くて、自分一人のことならば、折れていくって命題(ニアリーBY宮台)を考えつつ、私が信じるものを感じられるというのなら、人のことはまあお節介だろう。
自分に満足することができなくて苦しむ、、、自分ってそんなに大きなものかって、もちろん、仕事の失敗で夜悶えていたりもする私で、自分を消せるもの、大きな物語かってなことになるんでしょうかにゃー
オウムにこけても不思議ではない、赤軍、オウム、30年後にまた現前するのか。
価値観の多様化、満足する術をシステム的に教えたほうがいのか、悟り系には言わずとも良いような、タレレバ娘が一過性のものならば、近代の孤独はシェアハウスっつーか、しがらみ、絆で埋めるのか、やっぱりユダヤ系は強いのか。
我慢する楽しさ、自分を捨てる楽しさって何歳までに身につくものかって、結構、人格障害の人が回復しているとの記事も読んだことあるけど。
誰にとっても心地よい距離はなく、万人にとっての解決策はなく、わたしにとっての解決策とあなたの解決策は違う。みんな楽しく生きられたらいいのにな、と心の隅で祈りはする(のかな)
(追記)
シロクマ先生が、ガンダムのオルフェンズは、マズローで言うところの所属の欲求ではないかと書いておりました。
誰の代わりでもない自分を実感できる場って、場なのか。
はかない感情を楽しむとはいかないものか。
そういえば、ペトロニウスさんは、日常系(仲間と戯れ)と目標を持って生きる二大駆動系と書いていたような?