恕とか人生の目的とか

孔子の恕、とか、人生の目的に考えている。

孔子は人によって、言うことをちがえたっつーのは分かるんである。

優しい人、優柔不断な子には断言することを覚えさせたいし、

はきはきした子、自己中になりがちな子には人の言うことを聞け、となるだろう。

でも、と、短所は長所でもあるしなー

短所を生かす場所を考えるのもありではないかと思うときに、短所を活かす、短所を直す、その判断は、事後的にしか評価されないというか、何を目的に性格の矯正をするのか。

とか、押井守の、人生は目的を一つ決めて、それ以外は捨てないと流されて終わるだけ、というのがグルグル回っていて、目的なんてころころ変わるだろ。

目的、方針に従って、何かを捨てることは得ることであるが、捨てるもの間違えたら大事である。

家庭よりか仕事を優先して、子どもと離ればなれになって始めて、何が大切か分かった、となってもなー

まあ、それが人生であるし、やり直しはきく、のか。と、

自分も自分の道は自分で探して決めたけど父親とは必ず対話したように思う。毎回否定されるのもわかってたし、親父のような仕事は嫌だと思っていたのに何故親父に必ず話を通そうとしていたのだろう。死んだ父を心の底では尊敬していたのか?それとも勝手に物事決めて後から怒られるのが恐かっただけか。

自分は今は息子達に「自分がやりたい事を見つけて頑張りなさい。応援しているぞ」と理解ある父親を気取り、いろいろな事を体験して欲しいと思い、語りかける時には僕個人の偏った考えにならないように注意している。でも果たしてそれで良いのだろうかと少し不安になる事がある。

人を押しのけて前に出るような下品な事をしなくても生きていける家に産まれてこなかった以上、力をつけるしかないわけで。僕が「俺の金貸し論」を一方的に押し付けてくる親父のおかげで今何とか生きていけるよう育つ事が出来たのなら、僕は息子達に「俺の◯◯」を自分の言葉で語ってるだろうか?

ユウタロス Ver.1.3.4

私も言うことはきくか分からんけど、人には相談するほうである。

最後の決断はするけど、メリット、デメリットの判断は、私一人では見落とすこともあるだろうと。

それはともかく、何を子供に教えるのがいいのか。

うちの兄弟が、親に押しつぶされたのを見ると、押し付けがいいとも、しかしそうでもしないと、免許も取れなかったしな(それ以上もあり)というと一概に悪かったとも言えず、理解あるふりが良かったとも思えず。

世間をうまくわたっていくのがいいとか、

同じくユウタロウスさんには、何かを得るのに、何かを捨てなければいけないという考えがだめだと親父さんに叱られた話を書いておりました。

私も考えるのである。自分の幅を広げていくには、自分の得意フィールドワークはもちろん確保して、しかし、陳腐化はするので、次の芽もとらえておく必要がある。

もちろん、自分がやったことをない分野をするのに、今までの実績で人を引き付けて、それなりのお金を積んでもらえるのがベストだろうけど、普通は、手弁当というかやっすい値段から新しい分野で実績を作っていくしかないのではないのか。

と、私もフリーではないのでよく分からんが、というか、フリーで生き残っていくには高い値段を落とさないようにしていく目端の良さは必須であり、それができない時点で向いていないとした方が良いなという気もするが。

お金をどれだけ必要とし、そのためにどれだけ犠牲をコストをかけるのか、振り回されてもつまらないし、最低限の線はどう引くのか。

まあ、世間をうまくわたっていくのが人生の目的、なんて、詰まんないし、あとで後悔するかどうかなんて今の時点でわかるわけない。

人が好かないものが自分にとって好きなものはままあるし、忠告を聞くのがいいのかなんて(以下略)


何を目的として生きるのか、常に問い続ける姿勢こそが大切、としか言えないのか、後悔することは恐れるが、そうなったらしょうがない、それも人生さ、恐れてリスクを取れないのも詰まらんだろ。(いつもことだけど今日の結論も、つまんねーな)

やりたいこと、できること、必要とされることが一致することは少なく、バランスをどうとるかの最適解は個人によって違うとしかねー