私のテーマ

私は、間違えたくない人である。

わたしにとっての真理はあなたにとっての真理でない、と理解しつつ、私の真理を求める。

そんなもん、ある一瞬の真理であっても、次の瞬間にはそれでなくなるんだろうけど、一応、さ。

で、一瞬の真理を追い求めるとしたら、他の誰とも関係のないその時点の私の真理は、私の心中にしかない?

他の誰にも演算できることでもない。

ただ、他の誰かにも納得させたくもあって、だってバオイモドキ神をおおっぴらにするほど神経太くないし。

つーわけで、共同幻想論のエッセイを楽しみにしている。造悪論にも触れないかなー

私の中に生じる思考、感情は私にとって意識的にどうこうできるものではない。

私の真理は他の人に納得する線で提出できるのか。自分勝手な「私」は他の人にどうジャッジされるのか。

どの程度折り合いをつけるべきかの線は見えるのか(見えるわけなし)


真理にはおおむね2つ候補があって、自己実現と周りとの調和である。これは宮台先生の影響っすね。

自己実現はあくまで私の可能性を追い求める楽しさで、私は私以外になれなくそれを認めて、どの程度、私の幅を広げるべきか。

人に合わせると、人の視点はその人なりにつじつまを合わせるし、自分に拘りすぎるのも良くないっすね。

人に合わせて可能性が広がるのも私である。

この周りとの調和には、家族(半径3m)と、国家的なものがあるというか、共同体的なというか、市民的とは代入できるのであろうか。

私は、うーん、守るべき家族のために他を犠牲にする覚悟はあるのか?と言われるとってところで、自信があるんだかないんだか、ただ、イチャイチャすると、確かに幸せなんだよなー

向こうがどう思っているかどうかは確信はないが。

それを守るために何をどれだけ犠牲にできるのか。守るべきものとともに自分を残すために、コストは払っておく「べき」だろう。面倒くさいけどな!

誰にとってもいい顔はできないってなことを、ああ、私も中年だし、嫌われることも厭わなし、かなー

他の誰でも良い僕から、まあ代わりはいるんだろうけど、いない自分を得られるって点で家族って、というか、他では味わえないアジールであるのか、これは守らないといけいだろというか、

何かを依存させると、生きる意味ができるって重いよなー

他の代わりがいる自分に耐えられないのか、自分であることだけに忠実なニーチェ(って読んでないから適当)になれるのは、孤独に耐えられないのか、でも、僕は僕が守っているとあああ、

見返りを求めないのが愛っすよ(???)

愛されるのもいいけど、愛することも強くなれるよね。仏教ではまずいっすかねー