ミッションというか仕事というか(2)
同一人物の考えることなので、流れはそう変わらない。
仕事が人生を要求することについて、山本七平が天才とは他の生き方を選べなかった可哀そうな人(ともニュアンス違うが)とあったような、自分自身の損得を超えた生き方ができるのも一つの天与だろう。
天与と言っても良かれ悪かれだが。
だが、それは他に生きるすべがなかった自分にしかできないオリジナリティである。
マクロとミクロどちらを優先するのか、とあったが、当人にすれば生き方を選べないものでもあるだろう?
私自身の問題としては、無茶な生き方をする人とどう付き合うかである。
一生懸命な人は応援したいと思う。
しかし実際は、夢を打ち砕かれて無気力になった人をどう支えるかの問題でもある気がする。
理系の子 高校生科学オリンピックの青春 (文春文庫 S 15-1)
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(finalventさんが紹介するかと思ったがしなかったな)
犯罪から素晴らしい研究を残した子は結局、ぐれたほうに戻ってしまった。
教師にもそれを支えることができなかった。
教師を責められるものでもなく、また、その立場になったとき私が責められるものでもないだろう?
理想はあって、中々実行されないことであるので理想である。理想状態を念頭に人を責めてもしょうがない。私にできないことだ。
心の痛みは抱えるしかないが、さて、果たして、心に痛みを抱えたくないからと言って、こうなることもありうることが分かって関わることをやめるのは?
人間、先のことは分からない。私が関わることで好転するのか悪化するのかわからないときに、悪化ばかり考えてしまうのはって、人の人生を軽く考えすぎだろうか。
偽善の問題ともかかわるのだろうか?
リソースを割いたのなら、責められることではないと思うのだが、人生すべてを要求されてそれを受け入れろというのも、なんか無茶苦茶なような気がするが。
少しずれるが、家庭菜園の野菜で形の崩れたのでもあったら持ってきてくれという団体があって、母がオクラのイボ果が多いので売りに出せないと言っていたので、それ持っていこうかというと、自分のいらないものを人にやるのは、その人が気を悪くするのではないか、と言って結局持っていかなかった。
施しか、と思いながらそっちのことを頭の隅においている。