自分探しってよく分からんと

前回は、生きる意味ってのは、追い続けることだっぽく、生きることを意思することだって橋本治っぽい結論に達して、しかし、書き忘れというか、意思することと欲望があることは等しくなるんだろうか?

fnalvent師匠は肉欲っぽく、結構、欲望をバカにするのはいけません派だったような気がするけど。

杢之助は感じたままっぽく、しかし読んだのは8年前ではっきりとは思い出せない、ブログ1回目の感想であった。

というわけで私は隆慶一郎の影響も濃いのである。

それはともかく、自分探しが止まらないっぽい本もあったような、自分なんてないんだよとしたときに、自分の意思とか欲望って何だろう?

自分の人生を生きろと言われてから3年。今年三十路独女。
今まで誰かのために生きてきたつもりはなかったが、自分の存在を肯定するには他人の評価が必要だった。
誰かに優れていると評価されると安心した。自分は社会にいて良い存在なのだと実感できた。
しかしそうやって生きているといつも他人の目が声が耳が気になり自分らしさというものになど向き合うことがなかった。
他人の評価というものに勝手に振り回されながら生きて、それを脱するべく自分のために生きるということに意識を傾けてみた。
そこで気づいたのは自分なんて生きる価値がないと否定し続ける己の心であった。
あまりに強烈なそれに自分のやりたい仕事をしてみたり趣味に没頭したり恋人を作ったりしてみたがやはりダメみたいだ。
私はどうしたら自分のために生きられるのだろうか。
他人に依存せず、自分の価値観をもって、この自己否定から逃れられるのだろうか。
自分のためと考えてみたら社会実現も何もかもあまり重要ではなかった
鎖が外されたような思いだ。皆そんなに自分のためになんて生きられるのだろうか、
こんなに孤独なのに

http://anond.hatelabo.jp/20160730145353

とか、http://lair-onett.hatenablog.com/entry/2013/11/25/063008を読むと、自己肯定感を得にくい人は大変なんだなーである。

私の場合、親の愛情があったせいか、心のシステム的に友達はいない気味だけど、気にするようにはできていない。幸いにも、人の視線を気にするようにはできていない。

無駄に人畜無害な自分の欲望が悪いものなわけないだろー悪いというのなら世間が悪いと思う、性的嗜好は同性より。ふふふ、しかしこれに関しては相方を僕に染める計画の第一歩に踏み出すべく、、、どうでもいいけど。

あと、自分には、問題があるとその解決に燃えるというのと、知らないことがあるのが許せないという二大駆動系があり、これ、具体的にはどんな問題でも、何に対しての知らないことでもいい、主語はどうでもよくで述語大事な交換可能性があるので、たぶん仕事の適応範囲はかなり広い。

人生に問題がないなんてことはないので、飽きることもないっつーか。

欲望がない人の気持ちが分からない。

世界は無意味だってことは感じるけど、退屈しのぎの暇つぶしの存在は認める。

小林秀雄の流儀」で生き方を選べない天才の苦しさが書かれていたような、私にはこれ以外ないみたいな生き方とは縁がなかったが、ま、そこそこ楽しい(じゃなくて、相方の存在を考えれば、ええ、すっごく幸せだしー(日曜も料理おいしかったぜー

選択は、苦しくないほうを選べばいいんじゃね。どうしても得られないのなら、その理想状態は自分にとっては虚構で、その苦しい状態が解決するのを諦めて、苦しさと共に生きる道もありなんじゃねと思うが、よくわからんとです。

相方が、僕のやりたいことを認めてくれるというのは、僕も相方のやり方を尊重するということだが、収入なしの試行錯誤期間は2年ぐらいまでにしてくれるよねっぽく、それ以上は追い求めてもないのを認めるよねっぽく?その辺は暗黙裡にある(のか?)

自分探し系は自分の辞書の内容では書けない。

次回、意思と欲望に違いがあるのか突っ込むのかそのまま流れるのか、うーん?

吉本隆明のそれしかない生き方を書いた本の情報を得たので、そっちかなー