私が私である確信

ガーン、昨日の朝にブログ更新しておけば良かった。ちょっと被る(主観)新しい古典を読む(https://cakes.mu/posts/13559)。

パソコンの前に座ったけど、どたばたしてできなかったよのね。ま、気にせず行くぜ。


課長補佐と廊下ですれ違った時、会釈しても無視られる秋津君。できない社員である自覚はある。快く思われていないような気もする。

しかし、ここで会釈をやめたら、自分はただのえらそーな人になってしまうので、補佐は会釈の習慣が分からないだけさーと、気にせず続ける。

あるときはっと秋津君を見直す瞬間があるかもしれない。でも、相手の思う秋津君に合わせてしまったら、そんなことは起こらない。

てか、単に人を悪く思うのがやなだけかもだけど。

「2日で変わる箱の法則」っぽい本もありましたが、相手に合わせて、相手を悪く思って、相手もそれを感じて自分を悪く思って解決の糸口がなくなるなんてよくありそうである。

なろうとか見ていると、些細な行き違いがどんどん大きくなるっぽく、なんかそれってうざくね。

ま、なんか向こうにも事情があるでしょうよと、軽く受け流して、うーん、しかし、自分、貧乏くじ引いたような覚えもあまりない。なんか回っている。

なお、自分から手を挙げて発表者になることはよくあります。司会は能力的に無理、書記は責任が重く、書記の書いたものをいうだけの発表者ならできるぜ。質疑は皆で受けます(キラッ)というか、沈黙の瞬間がチョーうぜー

で、どちらかというと、自分の思い込みより、どうありたいのかを優先している(と断言するのもどうよ)の秋津君です。

車をこすったとして、前日寝不足だったとか、閉店間際のスーパーで買い物をする必要があったとか、急いでいたから小さい道を通ったとか、なんかいつもはないいくつもの条件が重なって発生する。

原因をはっきりこれだっていうことはできない。

(で、秋津君のブログは読まれているのかなとちらと思った)

たまたま事故が起こる、何かが起こるのは確率でしょ。(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20160501/p1

寝坊するとか、自分で作った要因はある。それは、しないように気を付ける必要はある。

でも、何かと何かの因果関係は、自分にとっての思い込みでしかない。

(ここで、冒頭の新しい「古典」を読むの、

 僕達の眼に映る悉皆の事物は、僕達の眼に触れ、心の中に入る時、僕達の情念と理性とに結ばれ、なんらかの心像を形ちづくる。僕達が無邪気に想像している、客観的な事物乃至事件というものから、僕達が確かに引き留め所有するものは、実は之等の心像にほかならない。現実とは、僕達にかかわりなく存在し、又動いているものかもしれないが、そのような現実とは僕達にとって何であろう。僕達がそれらに働きかけ、それがこの心像の場に転移されて精神の現実となることがないならば、純粋に客観的な現実は、かかる意味も持たず、僕達が正しく僕達であるのは、この心像の場をおいて他にない。(後略)

自分で理解した以外のことは、他人が思った道筋である。納得できるかもしれないが、他人にとっての理解であって、客観はありえない。

どこまで他人に合わせるのか。

大義とは何か。日本国民のために死ねるのか。まあ、米国を倒さなければ、家族が死ぬという思い込みを真に自分のものとできたならば、それでいいんじゃね。

明治政府は、村の子を、陛下の臣民に変えていったのか、思い込みなんて、どうとでも操作できる(のかな―とりあえず仮定)

教会で説教を受けるときと、数学を勉強するときは脳の同じ部分が反応しているのか、自分のテリトリーでないことに、自分の考えを合わせていく。

じゃあ、自分のテリトリーって何よとしたときに、杢之助の持っていたという生活の情感、半径3メートルの確かなもの。

しかし、私はこれがよく分からない。なぜなら私には生活がないからだ。スーパーで中食を買うし、確かなものに裏付けされたやらなければいけないことがない。

かなりこわばった文体で書かれているが、「はじめから不在だった」という喪失感の感性はかなり明瞭に示されている。佐野は理想との対比のなかで自己の恥辱を発見して自殺したが、文夫にはそうした理想は最初からなかった。ゆえに絶望すらなかった。
 この感性は、「私たちの世代は」として自己の世代の感覚が作者に自覚されているが、これもまた日本近代青年の類型的な心性である。夏目漱石森鷗外芥川龍之介などが、「ニル・アドミラリ (Nil admirari)」として語った心性である。本来なら、この言葉は「何事にも動じない」という達観を意味しているが、彼らの心性は、むしろこの世界の意味が「はじめから不在だった」ことに向き合っている。
https://cakes.mu/posts/10892

ぼかー本当のところ、ニヒリストであるんだと思う。生きる意味に対しての啓示を求めるし。

だから意味に拘る。まあ、焼酎の味は、修行しなければわからないように、追い求めるものは、年を経るにしたがって変わるっつーんなら、自分の思ったところを追い求めたいと言うと、

 之等の心像は意志によってつくられるものとは限らず、之が形成にはいわば僕達の心の全歴史がかかっているとしたら、そして、生涯のある瞬間に僕達が現勢力に変じうる心像の数は、その中でも限られたものにすぎず、しかもこの瞬間に対して僕達は己が生命を賭けるのだとしたら、その時、すべてを理解し、すべてを知るということはどういう事であるのか。(後略)

ヴァレリイの知性は認識の極限を追って、遂に何物かであることを拒否するという完璧の答を生み出すに至った(中略)。ヴァレリイの鋭い眼はこの仮構された底を設定することの無意味さ、その無力さを洞察した。彼にとって重要なのは下降してく歩みだけだったのである。あらゆる人間的条件をふみ超えて迄も、唯その歩行の正しさのみを信じてこの深淵を下降していく彼の姿には、最早ニヒリズムなどという気のきいた言葉を以って覆いえぬものがある。己の精神がより真実であるためにはすべてを捨て去ってくいることのない彼の姿は、激しい強靭な意志によって貫かれている。最早虚無などというものは存在しない。(後略)

24歳の隆慶一郎がでっかいっす。

死魂で杢之助がやりたいことをやるっつーのなら、まあ僕に命を懸けてやりたいことはない。

でも、自分なりにやりたいと思ったら、突き進んで、たぶん、それでも人生は回るだろう。

相方は、たぶん、認めてくれると思う信頼感(のろけ)

自分に対して誠実に生きる、う、http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2015/12/finalvents-chri.htmlとも繋げようと思ったんだが力尽き。