死と生き方の選択(2)

うー、ルートが6つぐらい見えるが、全部拾うのは多分無理だな。そのうち興味がそれる。

そもそもとしては、https://cakes.mu/posts/13437で、三島由紀夫が、「死についてどう対処するかという人間の精神の最高の姿はどうあるべきか」「犬死気違ひ」という死の無意味さをどう了解するかとしたときに、

三島は、「犬死気違ひ」として意味を奪われた死に対して、それを補うかのように「純粋行動自体の予定調和」という奇妙なことを言い出す。この考えは、意味の充足が永劫の時間の後に予定調和的に解消される期待を持っている。三島由紀夫自死がいずれ彼が理想とする日本国の精神をその死によって引き起こされる未来があると信じていたのである。そしてもうひとつ、三島には死に欲望を絡めていた。この「純粋行動自体」には密かにそれ自身の美を秘めていたのである。(略)三島由紀夫は死の倫理的な意味を美的な意味に置き換えようとした。

そういえば、まだ若い私は、死について意味付けをしていない。死ねば無と思うし、生きても死んでも世界は回ると思っているし、別に死にたいかなーと思いつつ、夢で死にかけたらドタバタするのである程度の考えなしである。

恐怖にじたばたしながら死ぬのも人間らしくて良しとも思うけど、どっちかというと静かに受け入れられたらよいなっぽく。

死について、世間一般的に特別な意味を持つほどエラそうにはなれず、生きる意味については、自分なりになんかないかなっぽく。

で、あるならば、死についても自分なりに意味を持ってもいいのかというか、うーん、しかしそれについては禁忌感がある。

ぼかー

日常の小さなイライラから解放される「箱」の法則―感情に振りまわされない人生を選択する

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を読んで、珍しくむかむかした。

子供が流産して

子どものおかげで奥さんを人として見られるようになったんだ(略)夫婦の絆を伝えるために、天から奥さんのお腹に降りてきたんだろう。すばらしいね

子供を亡くした人が一時の気休めが必要なのはわかる。だけど、まー私はニーバー教なので、受け入れられがたいものを受け入れる冷静さをと思いながら泣きじゃくっていいような気がする。

そこは冷静になれる場じゃないというか、死は死であり、出来事の意味付けをして良きことに持っていくのも嘘っぽくね?

あれ、ここは上手く言えないけど、僕にいいことをするより、どんな迷惑をかけても生きていてもらいたかったと思う。

あなたの存在だけで嬉しいっつー境地にはそれこそ失う思いをしなければ、達しないとは思うけど。

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

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で、悪魔の殉教者って言葉があったか。聖人であったとしても、その不遇が周りに神への不信感を植え付けることになれば、それは悪魔の殉教者であり、死で周りを勇気づけることができたとき、というか、その人自身ではなく、周りがどんな思いを受け取れるかで悪魔の殉教者か聖者かが決まるっぽく(記憶不確か)

うん?これは、私が無意味としている、世間的な影響力か?

私が出来事に対して、素直に感じるところがあったとして、その素直さを捻じ曲げて、良きことのように持っていく。

と余談ですが、私が何があっても私は変わらないと思っている根拠に胸のあたりにある感情のお池がある。

これは朝、目が覚めて、意識が途切れても私が私と思える根拠だとも思うんだが、私が私である感覚なのである。

言葉の感覚をつなげて考えているとよく分からないことを書いている、その感覚の基盤である。

それが、私の場合、あまり揺らがない。父とか兄貴とか瞬間沸騰器で、あれは何だ???的なんだけど。

今年の3月のトラブルとか、さすがに凍ったが、3日もすれば、平常運転の根拠である。

あんまり怒らないのに、最近、詳細気味の日記をつけて、面白いなと思ったが、他人を悪く思うということを言語化していないな、自分。

ちょっと不快気味の言語回路につなげようとすると、その前に不快な感じがして、その不快な感じのところで留めて、言語化する前にふっと余所に思考の方向が変わるのである。

嫌なことがあったら逃げりゃいいじゃんて、逃げられないから困るんだろって正論で、逃げられずに壮絶に破綻した経験があるんだけど、私の場合、普通は嫌なことを嫌なこととして受け止めないのよね、

欺瞞かもの偽りの平和だけど、でも、別に私の領域を侵されたとも思わない程度の被害しか受けていないのよね。

殴り返さなければ、状況がひどくなるので、釘刺したのも2度程度か。手を打たないわけでもなしで。

それはともかく、不快に思うようであれば、言語化(意味付け)しないのが私の方針で、じゃあ、自分によきことならば言語化するのか?

自分によきことって何だろ?都合の良いこと?今の自分の思考回路を侵さないことは自分で強化するのか?(論理とんだ?)

起こったことを自分に都合の良いように解釈するってのもなんか違うな。

悪魔の殉教者にするのか?聖者にするのか?

というか、自分の理想があったとして、現実に起こることが気に食わないことだったとして、1つ2つの障害で理想を捨てるのかってなことに繋がるような、

都合の悪いことは悪いこととして認めて、それでも、自分の信じる道を捨てないこと、というか、頭がこんがらがってきたので、今日のところは切ります。