サイコパスっておもろいのか?

finalventさんのサイコパス感想を見て、ふ〜んと思う。

犯罪係数なんて、いまさら新しい切り口あるのかと思ってあんまり関心も引いていなかった。

共存を選択した主人公に興味をひかれなかった自分の浅はかさを思う。

まあ、それほど自分を高く買うのもどうよなのでいいけど。

シビュラは常守朱から問われた矛盾について、暫定的な義に基づく議会内の個人粛清で対応する。
粛清という方式で共同幻想の義を保つなら、いずれ市民社会が成熟したかに見えても、市民粛清の危険性は回避できない。これがこの作品の提示する最終問題であった。これはまさに20世紀の正義理念である社会主義が粛清しか生まないことと結果的に対応はしている。
その答えは、おそらく「寛容」であり、寛容(クレメンス)は法の義の根幹であり、常守朱に象徴されている。そしてその象徴の矛盾は、雑賀譲二とその裏面の霜月美佳に当てられている。

https://note.mu/finalvent/n/nd3aee791101c

先日、竹田青嗣の講演を聞きに行って、信念対立は相互承認と共通ルールによってしか解決方法がないと、断言しやがったようなそうでないような、寛容かーであります。

私自身としては、私自身を放っておいてもらいたいために、他人のすることに、興味を示さないようにするのはデフォルトなので、この寛容は私のテーマにはならないマイノリティである。

少し横にそれると、35になって結婚していないことに対して、痛くもない腹を探られるのは不快か。

私の病気は偏見で見られるがそれは秘密にしてあるので無風と等しく、無風ならば反発することもない。偏見の目で見られるうちに私自身は入っていない、公言しないとレッテルを張られないレッテルとは何か、考えないでもない。

属性で人を差別するのは人類の知恵だが、個々の人間は違うのは当然だ。そんなことも分からずレッテルを張りたがる奴としゃべりたいかというと、まあ嫌いな人を拒絶していたらしゃべる人がいなくなるのも当然だ。

不快な思いをしない人とだけしゃべるとはどういうことか、それを考えると気色も悪くなるので、不快な面を持つ人物なのは承知で、不快な点は見ないふりをして仲良くするのもありではないかにょー

不快なのはそれもそれ。自分はなるだけ偏見を少なくしようとする努力しかできないっすという内省がなかったのであの文章にちょっと引っ掛かりを思えたんだな。

一応、秋津君は人の悪を糾弾しようとしたら、我が身を振り返り自分にできないことを人に要求するのはどうよとカウンター喰らってうやむやになる頭の中なので。

ただし、某マンガで、自分の見てもらいたくないところを見ないふりをしてもらうのが嬉しい子と、醜い部分も直視されて、醜いことを指摘してもらいたがる子がいるとかいていたような、それをじぃっと考えていたりもする。


寛容のお題目は美しいが、総論賛成各論反対、いざ、自分が不快な思いをしたとき、罪を憎んで人を憎まずにいられるのか、かなり難しいことに思われる。

確率的に変な人はいて、しかし、アメリカ人であったという、避けられたかもしれないという思いは、どれぐらいの隣人の良さを経験しないと、あるいは、一つの汚点は挽回されることのないのが偏見であるのか。

まあしかし、地道にお題目を唱えないことにもしょうがないだろう。

なんか調子に乗って偉そうだな。

ペトロニウスさんがアメリカ人はアメリカ人を見捨てないというのが国是であると書いていたような、大勢の幸福のために犠牲になる少数は許されるべきか、それは私のテーマでもあり、ニアミスするようなのでサイコパス見てみようかな。

犠牲を許さない、0にしようとすれば、大勢のほうにも他の方面で犠牲を出さざるを得ないだろう。

良い犠牲の出し方ってあるのか?犠牲を出すのが常に少数者なのは問題だが。

内地と本土で区別されるのであれば、うーん、私は別に近所に軍用基地ができてもいいけど、あれ、騒音とかひどいらしいっすか。身近になるとというか、やはりそんなもんなんだろうな。というか、住宅地ときゅうきゅうなのは

変化を嫌うのが人の常か。変化を強制されるのってものごっつー恨まれるような