色んな人の欲望を我が物としたら生きやすい

いや、ブログの書き出し決めとったのに、家に帰ったら、(父上が電線使うなとごねたせいで)ぴから設置できないって封筒ですべてふっとんだわ。いいけど。


病院で、「ミセス、いいお知らせがあります」と医者が言った。

「いいえ、私はミスです」と患者が答えると「では残念なお知らせです」と医者が言い直した。

何科か?


ってすぐわかる産婦人科。ネタは古いような気はする。最近は別に喜ぶんじゃねとも思うし、うん、別にいいんじゃね、と思う、けど、私の考えと世間の考えは違うことは分かるし、

私の考えと違う世間の常識を読み解くことは可能だ。

というか、私はいきなり本題というか私の中の言葉を脈絡なしに言うのでドンびかれるのだが、大体、みなさん、自分の考えが伝わるように相手に合わせて、(自分の中で相手像を作って)話す。で、まあまあ良く理解される(相手の設定があっている)

自分が賛成するのでなくとも、相手の考えを読み解くことはできる。

平田オリザが、古代ローマでは演劇で人同士が理解しあい、一体感を高めた、と言ったのか(知らんが)、自分の中にはない考えも読み解いていけば理解する、というか自分の中で応用性を持って理解することもできるかもしれない。

竹田氏はこの難問に対して、欲望というものは自己ルールを介して成立するのだから、自己ルールを作り直すことで、それが克服できる可能性を示している。ここは、普通の人にとってとても大きな人生の思惟の上の難所だろうと思うし、そこを竹田氏は一面ではうまく取り上げ、縷説している。特に、自己ルールを作り直す上で重要なのは、(1)自分の言葉をたくわえること、(2)フェアな友人関係を形成して批評し合うこと、としている。それは竹田氏の結果的な人生経験にもよるのだろう。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/07/post-efa8.html

なんというか、見られることで変質する、というのか、人の理屈(欲望)から自分を再構築することもあるだろうというか、

(ああ、竹田の本の紹介がよく分からないことになっているが)みんなが目指す欲望から、自分だけの欲望を育てるにはと理解したのだが(秋津君に言えば、皆の価値観に従うのではなくて、自分の価値観で生きる)

人の考えを我が物とできるのならば、ラカン的にいえば?他人の欲望を我が物とするのであれば、いろんな人がいろんなことを欲望していることを学習すると、何でもアリの矛盾状態になっちゃうのである。

飛行機の窓際は景色が見えてラブだし、通路側はトイレに行きやすい、ぽい矛盾である。どっちを選んでも良し悪しだしな。

人の考えを推測して理解できるのなら、人の欲望も理解できる程度の社会性はある。

自分が不快に思いそうなことでも、自分が不快にならないように気持ちを持っていけるというか、一つのことに矛盾状態があるってことは、矛盾から好きなほうを選べばいいのである。

実現できない一般欲望に苦しむのなら、苦しんでいない人の欲望を学んで生きればいい

これは自己ルールだけで生きてはだめで、自分の幅を広げる、人の考えを学んでいくしかない。

欲望というか快不快の文脈で、人に悪口を言われて不快か?自分に思い当たる節がないのなら、その人の在り方の問題で自分とは関係ないし、思い当たる節があるのなら直せばいい。思い当たる節があっても直せないのなら粛々と受け止め、その人を不快にさせないように距離をとれ。

自分の考えを広げて、楽なほうに楽なほうに。

(欲望と感情を訪れるものとして一緒にしましたというか、他人の欲望を我が物とすることについて詰めねばならぬのだろうが)

ぼかーフェアな人間関係で批評しあうというか、ボッチは本でいろんな考えを知って自分の考えを中和してきたので、というのはある。

色んな生き方を知っていれば、一つの道しかないと思い込むことはないのかって、自分の意志を生きるということと矛盾するか?

色んな生き方があるのを知って、あえて苦難を引き受ける生き方は有りではないかとも思う。

自分で選んだ感があれば人生にも納得できるだろうとするならば、人生に納得感を持たせるにはってことかな?

才能を磨く ~自分の素質の生かし方、殺し方~

才能を磨く ~自分の素質の生かし方、殺し方~

読んだら、生きる意味があると思えたら人生いきいきするらしいが、納得と意味は繋がらないかな?