縛られる自由と至上の自由意志とは

過去ログ見たら、割と楽しい。

自分の行動に(外部からの)理由を求める点と、自分がどういう人間でありたいのかという点はどっちが重いのか(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20150428/p1)とか

変わっていく中で変わらないものが私といえるのか(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20150815/p1)とか

関係性の唯一性の条件とは(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20150609/p1)とかまた考え直そう。

機械的に生きるのは詰まらんかと考えて、いや、縛られる自由だってあるし。

と、

シロエのその正しさや常識や選択によって周囲は助かりいくつかのトラブルは未然に防がれることはあった。その選択は家でも学校でも「上手く」やることを可能にしたけれど、結果シロエは深夜のアスファルトの上をどこまでも歩き続けなければならなかったし、シロエが感じているのは、つまり「あの頃」と同じ感覚なのだった。
http://ncode.syosetu.com/n8725k/91/

私理論、人の価値観で生きる場と、自分の価値観で生きる場、両方が必要、だな。

自分の行動に(外部からの)理由を求める点と、自分がどういう人間でありたいのかという点はどっちが重いのか、と言われると、外部から合わせる刺激だけで生きていると詰まんねーし、

どういう人間でありたいのか、だけで生きる理想人間は、自分の考えの押し付けだけで生きても、解決の方法を探す努力をしなければ、実現できるものも実現できない。

人の価値観だけで生きても、自分の価値観だけで生きても機械的になるが、かといって、使い分ける、傍から見て、方針が明らかだと機械的になるのか。

と、いつぞや、人間は悪いことをすると思って行動できるのか、いいことといういいわけがないと行動できへんのやないか、と書いてからじっと考えているのである

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

目的を持たずに行動することができるのが至上の自由かというと、では、偶然の結果を楽しむのが至上か?

というと、縛られる自由もあるので(戻った)、自分の意思で人生を選ぶことが至上か?

というと、自分がどういう人間でありたいのか、意思を持つのが至上なんだろうか。

頭の固い生き様よのうというか、理想的というか、自分の生き方に納得できればそれでいいような気もするがというか、

正直に生きれば、聖霊が裁判の場で代わりに立ってくれるのかというか、

どうあっても通す意思というか、(欺瞞に近い)、

損を承知で通す意思でないと、なんか嘘っぽい気がするのは事実で、(長いものにまかれるのは若者にはちょっと)、

まあそれは欺瞞も生じやすいだろうが、機械的に人生に一本の意志を通すのも、

人間、変わるのが普通じゃね、とすると、特殊な生き方のような、

ま、結論なし。