受け流すことと信頼と
助け助けられる関係の、自分の位置が変わることを知っていることが実感できたらそれはそれとして自己肯定感にならないか。
って前回書いて、これは自分の人生の否定にならないのか?と一瞬思ったけど、そうでもないような、書き連ねてみる。
大学時代、リクルートの適職診断「RーCAP」を受けて、運命を変えたのは自分か周りかっぽい分析があった(なんか違うが)。
わたくしゃ、自分バリバリで出たが、全力は尽くすが運命を変えられるとは思っていない。自己満足がしたいだけっす。
運命って何よ。
私理論だと、確率である。病気になる確率、交通事故にあう確率、原因はいろいろあるかもだけど、同じことをした人が同じ結果になるとは限らない。
たまたまである。
運命を自分だけが変えられると思う不遜さは、何が起こってもぜ〜んぶ自分のせいだと思うのは自分万能主義だろ。子どもの万能感。
かといって、すべて確率のせいにして、自分の責任が全くないのは、自分の人生を生きているって言えるのか(という実存主義者?)
やってみたいこと、欲望の充足に向かって、叶わない/叶うで一喜一憂するのはそれでそれでおもろいと思うのだがって。
すべて何かのせいにするひとは、なんというか独特のオーラがあるっつーか、(以下略)
起きたことは受け入れて、それはそれで自分のせいじゃないし〜と受け流す健全さ、
いや、自分の考えているのは尊厳とは何かってことなんである。社会的に無になった人は尊厳を持つことができないってのはなんか当事者になりそうな身にとってはきつい。
で、
自立と共生を語る 障害者・高齢者と家族・社会 [ 大江健三郎 ]
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よくよく考えてみたら、無意識に手助けすることで初めて健常者と手助けを受けた人が対等になるのであって、世話してあげるという気持を常に持ち続けているかぎりは、対等ではないなということに最近気づいたのです。これは女性が生理休暇をとったり、母性保護の制度があることにkついて男女平等の面で男性と比較されて常にいろんなことを言われてきましたけれども、そういう権利を放棄して、初めて男性と対等になるのであるという論理、同じではないかと思うんですね。ですから障害者がいつでもすまないという気持を持つのは人間として大事なのだけれども、そのすまないという気持をこちらで受け入れて、そして何かお手伝いすることによって、相手がきちっと普通の人と同じようにできる段階で、初めて双方生きるというか、対等に付き合えるのではないかと思っているのです。
なんか私が前回書いていたことと似ているような、秋津君の書くことは地球中のどこかで誰かの言ったことの焼き直しだと思うぐらいにはパンピー道を極めるぜ♪
「研究室の窓から」を読んで、そんなことあたりまえじゃないかの回路があって、そんな当たり前のことを大仰に言われても、反対者の存在もいてえいじゃねいの(私も賛成はしないけど)、私がどんな阿呆なことを言っても、それは私のクラスタでは私だけいうことのようで、世界のどこかでは私の言うことなんて古いんだろうなぽく思っている。
ああ、ダイバーシティについて調べてみるか。あれも多様性を認める思想であったな。
障害のある子供と暮らしているうちに強くなったのです。
それもただ強くなるということより、人間に対する信頼みたいなものを持つことで強くなっている。
大江健三郎、障害者の息子をダシにしてっぽくも思ったがちゃんと咀嚼しているぽい。大江の文学を読んでも面白そうか、と思いつつ、現在の状況を受け入れること、さらには気に食わない相手をちゃんと認めて受け流すことができる、存在を認めて必要以上に気に留めないのは根底に人間に対する信頼があるような気がする。
勘ですが。信頼がないと反発する(受け入れていない)っぽくも思うのだがって。