選択と結果

前回の記事を書いた翌朝は夢にうなされた。

ちょっと自慢気に自分が話しているところで、相手が違う話を始めて、くだらないことですいません、みたいな、相手にとっては価値の無い話で、相手にとっては価値の無い自分で、と目が覚めるし。

有象無象の自分というか、自分はスポットライトに当たることのない人間だけど、

価値の有無と、マイナスとは別だよなーとうまくいかない顧客に電話して凹んでいる秋津くん、2日引きずっている。

自分の永久歯が抜けた時も、新車をこすった時もショックを受けたが、そのまま人生は続く。

病気をしたって、続く。

失敗して、それで自分の人生の何が変わるのか。とは責任を持ったことのない人間の言葉だがって、

親の愛情を受けなかった場合の自分は、たしかに自分でありながら自分ではない。

大学受験に失敗しなかった自分は妄想の産物であり、経験が自分を形作るのなら、ありえた無数の可能性は逆算してみれば現在の自分には無かった、妄想になる。

1本の道しか敷かれていない。

選択によって変わるものは何か。

(っていつぞや書いたことの焼き直しですが)

私は目を瞑り、遠い海の音と、ホテルにまとわりつく静かであるが騒音のなかで自分の拍動に耳を傾けた。私は生きている。誰に伝えることもなく生きているし、誰に伝えることもなく死んでいくことができる。そこに私がいる。私にとってのただひとつの神秘である、私という存在がある。そこで終わりでもよい。

 しかし、人はその存在だけで同時に、他者のプレゼントであるのかもしれない。サニーが孫娘の心拍を感じ取りながら、彼は孫娘に彼の心拍という形の存在を与えてもいたのだろう。私たちの存在は、受け取ることで与えてもいる。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2015/12/finalvents-chri.html

 「私たちの存在は、受け取ることで与えてもいる。」というのは私の58までのテーマにしたいかな。


 「しかし、人はその存在だけで同時に、他者のプレゼントであるのかもしれない。」

 と、「私たちの存在は、受け取ることで与えてもいる。」の間に入る文章は私にとってはしっくりこない。

受け取ることで与える、は、今の自分にとっては共依存のような形にしかならない。

って関係だな。「受け取ることで与える」確実な理路があれば、資本主義の次になりそうな予感もするが。

自立には、社会的な自立、精神的な自立、経済的な自立の3つが達成されてはじめてなされる、という文章を大野さんのところで読んだような(?)、

私は病気をして、社会的に無価値になった自分が在り得る可能性として猛烈に持っている。

社会的な無価値な自分が、社会にとって必要であると証明できないものか、自分なりに考えついたら自費出版したいのだがって、

真理が描かれた本、誰でも読めれて、でも分かる人にしか分からない本、それって目の前にあるじゃん、みたいなー楽しーやん。

いや、それはともかく、正しい受け取り方ってあるのかなーとかって。

関係っすね。橋本治の「’89」。

とか、なぜ信号を守るのか。倫理を守るのはなぜか。うーん、社会的に正しいことをすれば落ち着くってカントっぽいようなことを考えるような、もっとよく考えこみたい、かな。