自分はなぜそう行動したのか

自分、仕事疲れで今、体力が底なのに人混みへ行って、頭が働かない。

しかし、近頃にしては珍しく時間が出来たので、なんか書いてみる。

しいていえば、世の中の規則はさして考えもせず守っておけばいいものがある、思った。私のような人間が、横断歩道で急ぐ必要などまるでないのだ、と。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2015/12/post-823f.html

私も人が居なくても信号を守る方である。

単に見落としの可能性が高くて、事故りそうな気がするだけだ。

と、ここまで書いて風呂に入ったら、つまらない結論になってしまったけど、書き連ねる。

ルールが有る。自分で決めたルールと、他人が決めたルールである。

ルールが有るのには理由がある、ときもある。実はルールの言う守らなかったら起こる結果は迷信だったりもするかもしれない。夜は口笛を吹くなとか。

皆がしていることだから、というので社会が成り立っていることもある。

(あ、疲れているな、混線してきたぞ。)

結局、ルールを守るのは社会の一員として、必要とされることである。

しかし、決められたルールの中でしか生きられない社会は、柔軟性がないので衰退する。

(のか、中国どうなんやろー、宮台先生は少数精鋭が一番いいっぽく言ってたけど)

白い目で見られることを覚悟してルール違反をするのも社会のためになる、時もあるかもしれない。

ならないことも多いんだろうけど。

社会で決められたことだから守る、現代日本社会的には夫婦別姓が通常でないので、今のままがいいってことにもならんやろ。

現在と違う形の世界への想像を失わず、現在に殉じるのか、あがらうのか。

私は、あがらう側にはなれそうにない。自分の可能性を失うこと。保守的にもなろうか。

守るべきものを持つこと。

社会のルールを自分のものとする成熟性がなければ、社会は成り立たない。

失う恐怖の言い訳にはしてはイカンだろうが。