他人のものさしを知っておくべきか

前回は酔っ払いで、(っていつものことだけど)支離滅裂であった。

今日も疲れて、頭が働かないので、アウトラインだけ(?)(土曜も8時間ぐらい仕事しなくては回らない感がしてきたぞ)

なんだか突然ニーチェっぽく、自分の物差しで生きないと辛いよね、と言い出した秋津君です。

それと、中庸で生きるというのは両立するんだろうか?

中庸で生きるってことは、両極端を知って真ん中を取ることだ。

両極端を知っている、行き着く先を知っているっていうのは、経験がないとわからないことだ。

他人の知識で極端を知ったつもりになってもな。

極端を経験したからこそ、中庸がわかる。

行き着くところまでいった若いころっぽく、若いころから知ったかぶって、中庸を目指すなんて面白くない。

あれ、自分的には論点がずれた。

他人の物差しで極端を知って、他人の物差しと自分の物差しの比較で、真ん中を探すのか?

秋津的には自分の物差しを追及すればいいのであって、他人の物差しなんて無視無視っぽく思ってもいたのだが、大人になるってことは他人の物差し(価値観)と自分の欲望の折り合いをつけることなんだろうか。

なんだか360度回転して元に戻ったかんがぁー

いやでもですね、思うんですが、他人が義務を果たさないって、代わりに自分が働いて、機嫌を悪くするぐらいなら、義務ほっぽって、いやな状況になったとしてもニコニコしていたほうが人も集まりそうな。

あれ、自分の欲望を我慢して他人のために生きるって、ほどほどがいいよねというか、ストレス耐性なんて生まれつきの性格っぽく、なんだかなの結論になってしまったい


(追記)

論理飛びまくりだけど、そこを埋めるだけの頭の隙間がない。

自分的にはつながっているんす。間に2行ぐらいはさんで、と言い訳しつつ、あとで書き直すかは気分次第っす