中庸
秋津君、酔っ払いだよん。しかし、カウンターの周りがいいので、でも結局おざなりなネタを投下してしまうのであった。
- 作者: 小川仁志
- 出版社/メーカー: 教育評論社
- 発売日: 2015/04/22
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欲望というと悪いイメージになるかもしれませんが、これを希望と言い換えたらどうでしょうか。
急に必要不可欠なものに思えてきますよね。(略)
このことを的確に言い表しているのが、古代ギリシアの哲学者アリストテレス(前384〜前322)の「メソテース」という概念です。日本では中庸と訳されます。(略)
だから欲張りすぎてはいけないのです。希望があるくらいがちょうどいい。
頭の中の計算機で、ベストを求めようとしてやりすぎならば、少し足らないぐらいで満足するのがいい。
とは言いつつ、前回の記事で「やっとのことで勝ち取ったものを守ろうとして、守り切れるか必死で泳いで、しかし、それは他人にとっては取り分多すぎになる。」と書いて、他人にとっての計算機と自分の計算機の差異が問題になる。
思い通りにならない他人というか、司馬遼太郎とか読むと、為政者が庶民の心に反することをしたら結局政権が倒れる、的なものを思い出したりした。
自分の計算機、に、他人の計算機の結果を加味して、ほどほどを算出する。
人格障害っぽいと言ったら悪いのだろうが、自分の意見の絶対度が高い人はそれなりに他人が動かないことに傷ついているような、というか、まあ、自分の考えた他人の計算機の結果に過ぎない。
日本人が努力と結果の計算式に当てはめ、釣合の軽重で神と取引をかんがえているような(?)
計算式、見通しを立てずにいることは、できない、のか。とちょっとずれつつ、目の前のことを一生懸命やりすぎても中庸でないというのなら、
キャリアは風任せにする、的な、与えられた運命を受容しつつその中であがく。
満足することは無理をしないことであるか。
と、この論点では前回の記事の「2つ目は選択の結果が今の自分の状況と違って良くなるならば、誘惑が強い点だ。」というのが浮いてしまう。
自分が不安状態でなければ、あえて無理をせずともよいか?計算機の結果というのなら、リスクとリターンで、賭けをするには失うものが多い状態になれば無理もしづらいか?
しかし、リスクが少なければリターンを考えるということで、計算機を気にしすぎる態度がまずい気がする。
中庸になる、ことを一番に考え、自らの欲望が満たさない状況を通常運転とし、みんなの利益を考えるとしたら、日本人の西郷隆盛的聖人になってしまうのか?
中庸を絶対視する態度、リターンがあるのに手を伸ばさない態度も、合理的でない。
合理的であったら、虐殺事件なんて面倒くさいことにはならないのか。
合理的であるメリットデメリットと中庸であることは両立するのか。
なんか「責任を分かち合おうとしない」ことがいまいち腑に落ちず、もう寝る時間なのでおやすみなさい。