与え合う関係と資本主義の次

レーゾンテートルだったか、存在意味。(BY太公望封神演義

自分がここにいてもいいという確信。必要とされている確信。

他の誰でもない代わりのない唯一の自分。

その場で行う義務があること、と私はイコールに結んでしまうのだが。


金にならぬ趣味を追及する。

父と息子の往復書簡―東京‐ニューヨーク

父と息子の往復書簡―東京‐ニューヨーク

他人の物差しにはならない自分の物差しを追及する。

価値観の多様化ってこんなことだと思うし、資本主義の次かとも思う。

自分の好きなことを追及して、他人との接点はあまりない中と、他人と交換できる価値はイコールにならないのに交換可能なものにはならないか。

多様である良さを社会が享受する。社会の進歩とはなんだろう。

(とか、を読めばもっと思考が深まると思うけど)

超人になろうにも、不自由がなければ自由のありがたさは分からない。

永遠の夏休みはきつい(BY銀魂の長谷川さん)

義務と自由の両輪をもって、超人といえども必要とする人間関係がある。

森奈津子が好きな子ができたって飾った自分を好きになられても困るし、素のまま対応、というようなことを書いていたような、素のままを好きになってくれるのは、自分が相手の好みストライクになるかならぬかはしょうがない。

諦めはある。縁があればね。

自分が与えられるものが必要とされないことはあって、でもそこでめげないためには、与えたい人ではないけど、与えられる場か。

私が与えられるものがある場は、私が必要とする場ではないときもあって、まあ欲を言えばきりがないし。

というと、資本主義でもOKだな。

与え与えられる場の一致を求めるのはクレイジーか。

やりたいこと、と、やらなければいけないこと、と、できること、の整理か。