偏見をなくしていいことがあるのか

今日も今日とてお疲れさん、落ち込んでいて、長文を書きたいネタもあるが、そのまま忘れられるかも。

で、前回のネタの続きである。

偏見をなくしていいことがあるのか、とお題が浮かんで、そこまでは持っていくけど、結論は例によっていい加減である。


前回書いた正義の感覚とは、白黒はっきりつけて、反論を受け付けない状態のことである。

なにか指摘されたときに、ああ、それは××のことね、とする。

すでにあるフレーム(スキーム)に指摘を振り分ける。

いつもは、なにか指摘を受けると、本当にそうか、3拍考える。

事実をどの解釈にするのか、フレームを作ろうとする。

この仕分けの頭の処理は

マインド・コントロールとは何か

マインド・コントロールとは何か

のいうことにかなり影響を受けていた、ことを再読の機会に確認したが、今となっては忘れた、が影響下にあるだろう。

2日で人生が変わる「箱」の法則

2日で人生が変わる「箱」の法則

は3度ほど読んだか。箱に入るな、人をものとしてみるな、ってことだったと思う。

ものとしてみると、あるフレーム(スキーム)の中での関係からはみ出さない。

ある人の発言を解釈することなく、色眼鏡をつけてみる。


まあ、偏見からは自由になれないのが真理ではある。

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)

色眼鏡をつけてみて、何がいけないのか。

頑なな人と思われていいのではないか。

色眼鏡をつけて、仕事で結果が出せるかというとたぶんそれは難しいと、利益に結び付けずとも、やっぱり頑なな人は、付き合える人を選ぶだろう。

付き合える人が多いと幸せということもないだろうが、たぶん、いろいろと指摘を真に受けると、疲れる。

あやまちを認めると気恥ずかしいし、なかなか人の業ではないだろうな。